2010年03月30日
◆重要◆PayPal送金停止に関するご連絡
1. 【至急】Pay Palによる海外送金停止のお知らせ
先日お知らせした「ペルーピサック救援基金」のPayPalによる海外への支援目的の直接送金が2010年3月31日移行対応不能になることが一昨日判明しました。
従いまして、日本国内口座の準備が出来るまでは、PayPalのご利用を控えていただくようお願い申し上げます。
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Date: Mon, 29 Mar 2010 18:31:06 -0700
From: PayPal (paypal3@info.paypal.com)
Subject: 請求機能の変更についてのお知らせ
2010年3月31日以降、弊社のメールアドレスを利用した支払いサービスについて、当面の間、商用目的(商品やサービスの購入など)以外での利用を停止させていただくことになりました。今回の措置は、日本における新たな法令を遵守するために取られるもので、同サービスを、日本のお客様の個人間の支払いでご利用いただくことができなくなります。今回の変更は、日本国外から日本国内に居住するお客様に対して行われる個人間の支払いには適用されません。またオンラインショッピングや、商品やサービスをメールで支払う機能につきましては、これまでと同様、ご利用いただくことが可能です。
今回の制限は、生活費の仕送りなど、あくまでも商用目的以外の支払いのみを対象としています。お客様にはご不便をおかけすることを、心よりお詫び申し上げます。なお、個人間の支払いサービスの再開時期等につきましては、後日ご案内させていただきます。今後とも何卒よろしくお願いいたします。
PayPal
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2.日本国内専用「ゆうちょ振替口座」(仮)のご案内
このレターを掲載させて頂いてから、たくさんの方々から「国内の振込先口座は無いのですか?」「野口さんを信頼しますから、口座番号などを教えて頂きませんか?」というお問い合わせを頂きました。この動きは当然予想されていたものであり、国内口座の設置について既にアクションが取られています。
3月30日現在、ゆうちょでの専用振替口座をゆうちょ銀行に対して申請中です。3月26日に必要な書類(申請書、団体の規約書、団体の代表印)の提出を行い、現在東京郵貯センターにて、申請書類一式のの審査が行われています。審査完了、正式な振替口座窓口の開始までには、今週いっぱいかかる見通しで、早ければ再来週の中ごろには(晴れて審査が通れば)ゆうちょ振替口座番号をこのウェブサイト内で発表させて頂けることになりそうです。祈りをこめながら、もうしばらくお待ちくださいませ。
皆様の暖かいお志、深く感謝いたしております。
━━━━━━━━━━━━━━━━
「ペルーピサック救援基金」
日本代表:野口陽一
連絡先:090-6545-9123
ペルーピサック救援基金の概要は上記のバナー画像をクリックしてください。
(現在、概要はpdfファイルで表示されます。お使いのパソコン環境により、Adobe Acrobat Reader(R)のダウンロードが必要となりますので、バナー画像をクリック後にダウンロード画面に移行した場合、手順に沿ってダウンロードをお願い致します。)
先日お知らせした「ペルーピサック救援基金」のPayPalによる海外への支援目的の直接送金が2010年3月31日移行対応不能になることが一昨日判明しました。
従いまして、日本国内口座の準備が出来るまでは、PayPalのご利用を控えていただくようお願い申し上げます。
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Date: Mon, 29 Mar 2010 18:31:06 -0700
From: PayPal (paypal3@info.paypal.com)
Subject: 請求機能の変更についてのお知らせ
2010年3月31日以降、弊社のメールアドレスを利用した支払いサービスについて、当面の間、商用目的(商品やサービスの購入など)以外での利用を停止させていただくことになりました。今回の措置は、日本における新たな法令を遵守するために取られるもので、同サービスを、日本のお客様の個人間の支払いでご利用いただくことができなくなります。今回の変更は、日本国外から日本国内に居住するお客様に対して行われる個人間の支払いには適用されません。またオンラインショッピングや、商品やサービスをメールで支払う機能につきましては、これまでと同様、ご利用いただくことが可能です。
今回の制限は、生活費の仕送りなど、あくまでも商用目的以外の支払いのみを対象としています。お客様にはご不便をおかけすることを、心よりお詫び申し上げます。なお、個人間の支払いサービスの再開時期等につきましては、後日ご案内させていただきます。今後とも何卒よろしくお願いいたします。
PayPal
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2.日本国内専用「ゆうちょ振替口座」(仮)のご案内
このレターを掲載させて頂いてから、たくさんの方々から「国内の振込先口座は無いのですか?」「野口さんを信頼しますから、口座番号などを教えて頂きませんか?」というお問い合わせを頂きました。この動きは当然予想されていたものであり、国内口座の設置について既にアクションが取られています。
3月30日現在、ゆうちょでの専用振替口座をゆうちょ銀行に対して申請中です。3月26日に必要な書類(申請書、団体の規約書、団体の代表印)の提出を行い、現在東京郵貯センターにて、申請書類一式のの審査が行われています。審査完了、正式な振替口座窓口の開始までには、今週いっぱいかかる見通しで、早ければ再来週の中ごろには(晴れて審査が通れば)ゆうちょ振替口座番号をこのウェブサイト内で発表させて頂けることになりそうです。祈りをこめながら、もうしばらくお待ちくださいませ。
皆様の暖かいお志、深く感謝いたしております。
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「ペルーピサック救援基金」
日本代表:野口陽一
連絡先:090-6545-9123
ペルーピサック救援基金の概要は上記のバナー画像をクリックしてください。
(現在、概要はpdfファイルで表示されます。お使いのパソコン環境により、Adobe Acrobat Reader(R)のダウンロードが必要となりますので、バナー画像をクリック後にダウンロード画面に移行した場合、手順に沿ってダウンロードをお願い致します。)
Posted by エハン at
19:15
2010年03月28日
地球巡礼者─アースピルグリム─(最終章)旅路の果てに
私たち人類は、今や過渡期に来ています。
文明の発達、技術の進歩は人類にとって飛躍を与えた反面、私たちの心から自然の恩恵を忘れさせるという、両者の選択を強いました。その結果、文明だけに心を奪われてしまった人はシステムの歯車に組み込まれていることそのものを疑問に思わず、また反対に、システムに疑問を持つものは社会から追い出されアウトローになるという、二つの図式が出来上がってしまったのでしょう。
アウトローの道、これこそが「巡礼者の道」とも言うべきものかもしれません。
サティシュ・クマールは、こう語っています。
「今の状況を嘆き、悲観しても、まったく意味がありません。システムは悪化しているのではなく、崩壊しているのです。
心配したり悲しまないで、システムの崩壊を喜びましょう。なるがままに任せておけばいいのです。私たちは新しい制度を生み出す助産師の役割を果たし、新しい農業、工芸、教育を作らねばなりません。そうすれば物を搾取し無駄使いする二元主義的なパラダイムが崩壊した時でも、道を見失い途方にくれることはありません。新しい手本を作り出すために努力しなければなりません」
現在のシステムは、二元論から出来ています。
勝者、敗者──組織か、個人か。どんなに会社の為と思って尽くしても、いざ利益を追求する為になら平気でその人を解雇する。強い者だけが生き延びて、弱い者は朽ち果てるのが当然だと思っている忌々しい社会を作ってしまったのは、他ならない「私たち人類」なのです。
人類が生み出した社会の責任を負うのは、やはり同じ人類である自分たちでしかない。
ダーウィンの進化論から派生するような社会システムに準じるのではなく、「互いに助け合って進化していくシステム」を、私たちは今こそ考えなければならない時に来ているのです。
ウェイド・デイヴィスも、同じように言っています。
「皆さんに知って頂きたい。本質的に人間は同じです。世界観が人間の可能性を、著しく狭めてきただけなのです。その結果、利点もあると同時に欠点も生み出しました。しかし、私たちが歩んでいる崩壊への道を閉じるために、1つだけ方法が残されています。
それは、この歴史の流れを変えるために、私たちの思考力と知的創造力を発揮することです」
「人間は考える葦である」──有名なパスカルの言葉です。
しかし、私たちは今や「考える」ということさえも放棄して、言われるがままに生きて来てしまいました。パスカルに言わせればそれは、「人間でさえもない」ということになってしまいます。
教養の有・無はいっさい関係ありません。考えることは、誰にだって出来ることです。思考力も知的創造力も、誰かひとり特別に与えられた能力ではなく「誰もにみな、平等に与えられた力」だと、私は確信しています。あとは、それを如何に使いこなすか──自分で努力し、工夫するだけの話なのだと、そう思えるのです。
何故、そう言えるのか──それは、「私たちは誰ひとりとして例外なく、この地球、この宇宙から誕生した存在だから」です。
宇宙が創造主であり、地球が母ならば、その子供である私たち人類にも同じように「創造する力が平等に与えられている」と、そう思えるからです。
「後世の人々に1つだけ伝えられるとしたら、人間は決してこの宇宙で孤立した存在ではない。そして宇宙にあるすべてのものにつながっていることを伝えます」
ナシーム・ハラメインの言葉は、非常に印象的です。
現在、私は「電気的宇宙論」を読んでいる最中なのですが、そこにはナシームの言葉を物理学的に証明するようなことが書かれていました。
「極小の粒子から巨大な銀河まで、電気回路網が自然界のすべてを接続し、統合しているのである。この電気回路網は銀河を組織し、恒星にエネルギーを供給し、惑星を誕生させ、地球の天気を支配し、生物に命を吹き込んでいる。『電気的宇宙(エレクトリックユニバース)』には孤立した島はない」(電気的宇宙論 徳間書店・刊 P23より引用)
ナシーム・ハラメインは、以下のように続けています。
「私たちは大宇宙と小宇宙をつなぐ役割を担い、微粒子と宇宙規模のものをつないでいます。人類は自然の歯車の中にいて、宇宙に影響を与えます。一方、宇宙はこの驚くべき情報の無限ループの中で人類に影響を与えているのです。そう考えると、自分の力や宇宙とのつながりを感じる必要があります。そしてこの力とのつながりを、技術や科学の理解に応用し、世界を変えていかなければなりません」
この世界に生きる多くの人が、「今、時代は変容の時を迎えている」そう感じていることでしょう。日本で生活する人達の中にも「これから先、どうなるのだろう」と不安を抱えている人だって少なくないでしょう。
そういった現象を、中には「2012年のような予言があるから、人々が不安を抱えるんだ」という責任転嫁をする人もいるかもしれません。しかしそれは逆説でしかなく、「人々が不安を抱えるような時代になっているからこそ、2012年にみなが注目するのだ」という構造をはき違えてはいけない──そう思うのです。
その証拠に、1999年ノストラダムスの比にならないぐらい、2012年の注目度は高いです。それはただの興味本位や好奇心ではなく、「今、確かに時代は変わろうとしている。その時自分たちには、何が出来るのだろう」ということを知りたいと願う人達が大勢いることの証明に値すると、私には思えるのです。
では、どうしてこのような難しい時代を、私たちは選んで生まれてきたのでしょうか?
それには必ず「理由」があるはずです。その理由について、グラハム・ハンコックはこう述べています。
「なぜ私たちは立ち上がるべきなのでしょうか?
それは学び、そして、成長するためです。プロセスを経た後、学ぶ前よりも、より良く進化した人間になっていることを願ってね。
研究をしてきて私が発見したことは、内なる旅が存在することです。巡礼のプロセスの一部でもあり、私たちが追求すべきことです」
私たちがこのような難しい時代──新たな世界を模索する為の時代に生まれている理由は、他の何でもない。私たちが、その「道」を選んだから。
目的地がどこにあるのか──それは、分かりません。きっとそれは、人それぞれ異なるのでしょう。
明確に言えることは、私たちが各の目的地を目指す為に、巡礼の道として「この地球」を選び、「この時代」を選んで、今、存在するという事実だけです。
巡礼は、何も世界各地本当に歩き廻ることだけではない。こうして「生きている」だけで、充分私たちは「巡礼者」なのでしょう。
ピース・ピルグリムが、素晴らしい言葉を残しています。
「確かに現代社会は今恐ろしい状況になっていて、あちこちに問題がありすぎて間近で暴力が起きていてもわからないのです。
世界の闇は聖なる愛の法則に反することから生じています。しかし、これが嵐の前の絶望的な暗闇だとはいわないで、逆にプロセスを信じましょう!
これは想像を絶する平和の黄金時の夜明け前の暗さにすぎない! それに向かって互いに願い、働きかけ、祈りましょう!」
私たちはどのようにして、この巡礼の旅を終わらせるのでしょうか?
どんなに不毛に思える日も、どんなに苦痛に感じた時間も、通り過ぎてみればただの一風景となってしまいます。あたかもそれは、旅路の途中で出逢った暴風や吹雪のように。
そこを乗り越えて辿り着いた新天地は、一体どのようなものなのでしょうか?
想像しても、今の私たちにはまだ予測出来ないものかもしれません。ただひたすら、新天地を目指して歩いていく──私たちに残された唯一の希望は、ひたすら「歩く」ということだけなのかもしれません。
それが、巡礼者の在り方なのだろう──と。
ルーミーの詩が、辛い旅路を続ける私たちに、こう語りかけています。
生まれるのを怖がる胎児のように
そこに閉じこもっているきみ こっちに出ておいでよ
あのね 母親のお腹のなかの子だって 出て行くときがくるんだ
それが自然だからね
やがて自分で母乳をのみ 離乳期になったら固形食を摂り
いつかは知識を追い求めるようになり 目に見えない獲物を狩るようにもなる
それが自然だからね
だからもし胎盤のなかの子と話すことができるとしたら
誰だってこう言ってあげたくなるはずだ
あのね外の世界はね それはそれは広くてね とっても複雑なところなんだ
大地には小麦畑が広がっていて その先にはずうっと山並みが続いているのさ
果樹園には花々が咲き誇っていて 夜になると満天の星がきらきらと輝くんだ
太陽のもとでは きっと仲間たちが結婚式を祝って踊っているよ
それなのに きみはまだそこに閉じこもっているつもりなのかい
もう その暗闇から出ておいでよ
しかし まだ胎児のきみは きっとすまし顔をしてこう言うのかもしれないね
お言葉ですが この世にもっと素敵な別の世界があるなんて嘘でしょう
私が知っているこの世界が 世界のすべてでしょう
あなたこそ 幻でも見ているのじゃないのですか
旅路の果てに、あなたは何を見つけますか?
DVD「地球巡礼者」絶賛発売中。(すでにお持ちの方は、これからの解説も踏まえて視聴して頂けましたら幸甚です。何度みても必要なメッセージが、この中に含まれている──私はそう感じました。)
エハン・デラヴィ最期のトークイベントも受付中です。
17年間の研究成果すべてを聞けるラストチャンスです。
【参考文献】
YOU are EARTH 篠崎由羅
文明の発達、技術の進歩は人類にとって飛躍を与えた反面、私たちの心から自然の恩恵を忘れさせるという、両者の選択を強いました。その結果、文明だけに心を奪われてしまった人はシステムの歯車に組み込まれていることそのものを疑問に思わず、また反対に、システムに疑問を持つものは社会から追い出されアウトローになるという、二つの図式が出来上がってしまったのでしょう。
アウトローの道、これこそが「巡礼者の道」とも言うべきものかもしれません。
サティシュ・クマールは、こう語っています。
「今の状況を嘆き、悲観しても、まったく意味がありません。システムは悪化しているのではなく、崩壊しているのです。
心配したり悲しまないで、システムの崩壊を喜びましょう。なるがままに任せておけばいいのです。私たちは新しい制度を生み出す助産師の役割を果たし、新しい農業、工芸、教育を作らねばなりません。そうすれば物を搾取し無駄使いする二元主義的なパラダイムが崩壊した時でも、道を見失い途方にくれることはありません。新しい手本を作り出すために努力しなければなりません」
現在のシステムは、二元論から出来ています。
勝者、敗者──組織か、個人か。どんなに会社の為と思って尽くしても、いざ利益を追求する為になら平気でその人を解雇する。強い者だけが生き延びて、弱い者は朽ち果てるのが当然だと思っている忌々しい社会を作ってしまったのは、他ならない「私たち人類」なのです。
人類が生み出した社会の責任を負うのは、やはり同じ人類である自分たちでしかない。
ダーウィンの進化論から派生するような社会システムに準じるのではなく、「互いに助け合って進化していくシステム」を、私たちは今こそ考えなければならない時に来ているのです。
ウェイド・デイヴィスも、同じように言っています。
「皆さんに知って頂きたい。本質的に人間は同じです。世界観が人間の可能性を、著しく狭めてきただけなのです。その結果、利点もあると同時に欠点も生み出しました。しかし、私たちが歩んでいる崩壊への道を閉じるために、1つだけ方法が残されています。
それは、この歴史の流れを変えるために、私たちの思考力と知的創造力を発揮することです」
「人間は考える葦である」──有名なパスカルの言葉です。
しかし、私たちは今や「考える」ということさえも放棄して、言われるがままに生きて来てしまいました。パスカルに言わせればそれは、「人間でさえもない」ということになってしまいます。
教養の有・無はいっさい関係ありません。考えることは、誰にだって出来ることです。思考力も知的創造力も、誰かひとり特別に与えられた能力ではなく「誰もにみな、平等に与えられた力」だと、私は確信しています。あとは、それを如何に使いこなすか──自分で努力し、工夫するだけの話なのだと、そう思えるのです。
何故、そう言えるのか──それは、「私たちは誰ひとりとして例外なく、この地球、この宇宙から誕生した存在だから」です。
宇宙が創造主であり、地球が母ならば、その子供である私たち人類にも同じように「創造する力が平等に与えられている」と、そう思えるからです。
「後世の人々に1つだけ伝えられるとしたら、人間は決してこの宇宙で孤立した存在ではない。そして宇宙にあるすべてのものにつながっていることを伝えます」
ナシーム・ハラメインの言葉は、非常に印象的です。
現在、私は「電気的宇宙論」を読んでいる最中なのですが、そこにはナシームの言葉を物理学的に証明するようなことが書かれていました。
「極小の粒子から巨大な銀河まで、電気回路網が自然界のすべてを接続し、統合しているのである。この電気回路網は銀河を組織し、恒星にエネルギーを供給し、惑星を誕生させ、地球の天気を支配し、生物に命を吹き込んでいる。『電気的宇宙(エレクトリックユニバース)』には孤立した島はない」(電気的宇宙論 徳間書店・刊 P23より引用)
ナシーム・ハラメインは、以下のように続けています。
「私たちは大宇宙と小宇宙をつなぐ役割を担い、微粒子と宇宙規模のものをつないでいます。人類は自然の歯車の中にいて、宇宙に影響を与えます。一方、宇宙はこの驚くべき情報の無限ループの中で人類に影響を与えているのです。そう考えると、自分の力や宇宙とのつながりを感じる必要があります。そしてこの力とのつながりを、技術や科学の理解に応用し、世界を変えていかなければなりません」
この世界に生きる多くの人が、「今、時代は変容の時を迎えている」そう感じていることでしょう。日本で生活する人達の中にも「これから先、どうなるのだろう」と不安を抱えている人だって少なくないでしょう。
そういった現象を、中には「2012年のような予言があるから、人々が不安を抱えるんだ」という責任転嫁をする人もいるかもしれません。しかしそれは逆説でしかなく、「人々が不安を抱えるような時代になっているからこそ、2012年にみなが注目するのだ」という構造をはき違えてはいけない──そう思うのです。
その証拠に、1999年ノストラダムスの比にならないぐらい、2012年の注目度は高いです。それはただの興味本位や好奇心ではなく、「今、確かに時代は変わろうとしている。その時自分たちには、何が出来るのだろう」ということを知りたいと願う人達が大勢いることの証明に値すると、私には思えるのです。
では、どうしてこのような難しい時代を、私たちは選んで生まれてきたのでしょうか?
それには必ず「理由」があるはずです。その理由について、グラハム・ハンコックはこう述べています。
「なぜ私たちは立ち上がるべきなのでしょうか?
それは学び、そして、成長するためです。プロセスを経た後、学ぶ前よりも、より良く進化した人間になっていることを願ってね。
研究をしてきて私が発見したことは、内なる旅が存在することです。巡礼のプロセスの一部でもあり、私たちが追求すべきことです」
私たちがこのような難しい時代──新たな世界を模索する為の時代に生まれている理由は、他の何でもない。私たちが、その「道」を選んだから。
目的地がどこにあるのか──それは、分かりません。きっとそれは、人それぞれ異なるのでしょう。
明確に言えることは、私たちが各の目的地を目指す為に、巡礼の道として「この地球」を選び、「この時代」を選んで、今、存在するという事実だけです。
巡礼は、何も世界各地本当に歩き廻ることだけではない。こうして「生きている」だけで、充分私たちは「巡礼者」なのでしょう。
ピース・ピルグリムが、素晴らしい言葉を残しています。
「確かに現代社会は今恐ろしい状況になっていて、あちこちに問題がありすぎて間近で暴力が起きていてもわからないのです。
世界の闇は聖なる愛の法則に反することから生じています。しかし、これが嵐の前の絶望的な暗闇だとはいわないで、逆にプロセスを信じましょう!
これは想像を絶する平和の黄金時の夜明け前の暗さにすぎない! それに向かって互いに願い、働きかけ、祈りましょう!」
私たちはどのようにして、この巡礼の旅を終わらせるのでしょうか?
どんなに不毛に思える日も、どんなに苦痛に感じた時間も、通り過ぎてみればただの一風景となってしまいます。あたかもそれは、旅路の途中で出逢った暴風や吹雪のように。
そこを乗り越えて辿り着いた新天地は、一体どのようなものなのでしょうか?
想像しても、今の私たちにはまだ予測出来ないものかもしれません。ただひたすら、新天地を目指して歩いていく──私たちに残された唯一の希望は、ひたすら「歩く」ということだけなのかもしれません。
それが、巡礼者の在り方なのだろう──と。
ルーミーの詩が、辛い旅路を続ける私たちに、こう語りかけています。
生まれるのを怖がる胎児のように
そこに閉じこもっているきみ こっちに出ておいでよ
あのね 母親のお腹のなかの子だって 出て行くときがくるんだ
それが自然だからね
やがて自分で母乳をのみ 離乳期になったら固形食を摂り
いつかは知識を追い求めるようになり 目に見えない獲物を狩るようにもなる
それが自然だからね
だからもし胎盤のなかの子と話すことができるとしたら
誰だってこう言ってあげたくなるはずだ
あのね外の世界はね それはそれは広くてね とっても複雑なところなんだ
大地には小麦畑が広がっていて その先にはずうっと山並みが続いているのさ
果樹園には花々が咲き誇っていて 夜になると満天の星がきらきらと輝くんだ
太陽のもとでは きっと仲間たちが結婚式を祝って踊っているよ
それなのに きみはまだそこに閉じこもっているつもりなのかい
もう その暗闇から出ておいでよ
しかし まだ胎児のきみは きっとすまし顔をしてこう言うのかもしれないね
お言葉ですが この世にもっと素敵な別の世界があるなんて嘘でしょう
私が知っているこの世界が 世界のすべてでしょう
あなたこそ 幻でも見ているのじゃないのですか
旅路の果てに、あなたは何を見つけますか?
DVD「地球巡礼者」絶賛発売中。(すでにお持ちの方は、これからの解説も踏まえて視聴して頂けましたら幸甚です。何度みても必要なメッセージが、この中に含まれている──私はそう感じました。)
エハン・デラヴィ最期のトークイベントも受付中です。
17年間の研究成果すべてを聞けるラストチャンスです。
【参考文献】
YOU are EARTH 篠崎由羅
Posted by エハン at
20:03
2010年03月22日
地球巡礼者─アースピルグリム(5-2)自然と人を繋ぐ存在
かつては自然(自然神)信仰だった日本も、仏教が入ってくることでその在り方が変わってしまいました。しかし本来、日本文化の中には「自然を敬う姿勢」というのが少なからず入っていた──私はそう思います。
そのひとつに、「季節感を重んじる心」というのがあります。その季節にあった行事、風習を日本人は楽しみます。少なくとも、そこには「自然を資源とだけしかみない」という在り方はないはずです。
日本が精神的に崩れ始めてしまったのは、そうした「自然と一体化した生活」というものから切り離されて来たからではないか──そんなふうに思うこともあります。
今では旬も何も関係なく、どんな野菜や果物もスーパーで買えてしまう時代。そのうち「旬」という言葉さえ、死語に近くなってしまうかもしれない──。
これは「文明の力」といって褒め称えるべきものではなく、むしろ「自然から切り離されていく行為」として、嘆き悲しむべきものなのではないでしょうか。
レネ・フランコ・サラスの言葉は印象的です。
「星は兄弟で、丘と神聖な山(ルビ・アプ)は、私たちの保護者なのです。湖は、私たちに生命を与え、生活を支える祖父です」
完全に自然と一体化して生きられる姿勢というのを失ってしまった私たちにとって、レネの言葉は「自分たちの生活を省みる機会」をも与えてくれます。
また、この章の中でグラハム・ハンコックが語った言葉も印象的です。
「しかし、異次元世界を体験したいなら、シャーマンに会うのが一番です。彼らは日常生活の一部として、異次元世界を探索しているからです。
産業化し、技術の進んだ国で暮らす私たちは、シャーマンと比べて未熟です。私たちの文化は技術面では優れていますが、魂の探索という面においては著しく劣っていると思います。本当の意味で巡礼者になりたいのであれば、シャーマンに教えを請うべきです」
シャーマン。自然と共にあり、自然の智慧を授かる存在──。
本当に大切な智慧は人間が生み出した学問の中にはなく、大自然や宇宙の中にこそあるものなのかもしれません。
自然から切り離されて、自然をただの物質的現象と捉え、机上の空論を翳すことは可能でしょう。
しかし、人はいざ自然から切り離された状態で「本当の自然の智慧を授かることは出来ないのではないか」そうも思います。
だとしたら、私たちは文明が進めば進む程、生み出す知識は「自然や宇宙の法則から切り離された『ひとりよがりのもの』」となってしまう危険性は否めません。
シャーマン研究家のポール・テンプルは語ります。
「彼らは、私たちの健康状態を感じ取ります。肉体的な領域と精神的な領域のバランスが崩れたり、相対的世界に固執しすぎると、体のバランスが崩れます。どんな状況であっても、病気になるのです。シャーマンの所に行って癒しや浄化が必要だと言えば、吐き気や便意を催す薬草をくれます。まずは浄化して、それだけで肉体と精神のバランスを取り戻せるかを試すのです。
シャーマンにこの薬草のことをドラッグだと言えば、『それは全然違う』と答えるでしょう。『それは君たちの世界観の思いこみだ』と。この薬草はニューワールドのモノであって、異次元世界をつなぐ植物だから、『聖なる』植物として扱わなければならない。サボテンを鍋に入れて何時間も煮込んでいる間に、効果を高めるために良い気を入れることが重要だ。なぜなら、私たちは今世代の聖なる植物の番人だからです。この伝統を継承しているからです。だからこの伝統を尊敬し、大切にしましょう」
私たちはただの「思いこみ」で、何千年も続いてきた伝統を安易に壊したり、否定します。
しかし、「ならば私たちの文明は本当に正しいのか」と言えば──全くもって、そうではありません。
きっとこのペルーの地では、鬱病になった人に対して「大量の薬」が処方されることはないでしょう。
いえ、それどころか鬱病にさえかかることがないかもしれない。その事実だけで、充分「私たちの文明の問題点」が分かるような気がしてきます。
巡礼を前に、ワシューマと呼ばれる飲み物を飲んで儀式を行います。そうすることで、その地の自然との繋がりが強くなるからです。
原住民やシャーマンといった人々は、「いかに人間にとって、自然との繋がりが大切か」を知っている人たちのように思います。
それは「生命の本質」に近い在り方であって、エゴによって自然を支配しようとしている文明人の在り方とはほど遠い。いわば、「共存共栄」であり「調和しあう姿勢」だと、私には思えます。
そうした彼らの在り方を見ると、「文明というものは、人間の進化の産物と呼べるのか」──私は疑問です。
技術が便利になったところで、生物が退化してしまえば「まったくもって意味がない」。明らかに、私たち先進諸国の人たちは肉体的な意味でも、また精神的な意味でも退化してしまっているのではないでしょうか。
シャーマンや原住民の生き方は、私たちに「これからの人類は、どのように自然と共に生きていけばよいのか」という問題を提議してくれている──そんなふうにも感じる次第です。
DVD「地球巡礼者」絶賛発売中。(すでにお持ちの方は、これからの解説も踏まえて視聴して頂けましたら幸甚です。何度みても必要なメッセージが、この中に含まれている──私はそう感じました。)
エハン・デラヴィ最期のトークイベントも受付中です。
17年間の研究成果すべてを聞けるラストチャンスです。
YOU are EARTH 篠崎由羅
そのひとつに、「季節感を重んじる心」というのがあります。その季節にあった行事、風習を日本人は楽しみます。少なくとも、そこには「自然を資源とだけしかみない」という在り方はないはずです。
日本が精神的に崩れ始めてしまったのは、そうした「自然と一体化した生活」というものから切り離されて来たからではないか──そんなふうに思うこともあります。
今では旬も何も関係なく、どんな野菜や果物もスーパーで買えてしまう時代。そのうち「旬」という言葉さえ、死語に近くなってしまうかもしれない──。
これは「文明の力」といって褒め称えるべきものではなく、むしろ「自然から切り離されていく行為」として、嘆き悲しむべきものなのではないでしょうか。
レネ・フランコ・サラスの言葉は印象的です。
「星は兄弟で、丘と神聖な山(ルビ・アプ)は、私たちの保護者なのです。湖は、私たちに生命を与え、生活を支える祖父です」
完全に自然と一体化して生きられる姿勢というのを失ってしまった私たちにとって、レネの言葉は「自分たちの生活を省みる機会」をも与えてくれます。
また、この章の中でグラハム・ハンコックが語った言葉も印象的です。
「しかし、異次元世界を体験したいなら、シャーマンに会うのが一番です。彼らは日常生活の一部として、異次元世界を探索しているからです。
産業化し、技術の進んだ国で暮らす私たちは、シャーマンと比べて未熟です。私たちの文化は技術面では優れていますが、魂の探索という面においては著しく劣っていると思います。本当の意味で巡礼者になりたいのであれば、シャーマンに教えを請うべきです」
シャーマン。自然と共にあり、自然の智慧を授かる存在──。
本当に大切な智慧は人間が生み出した学問の中にはなく、大自然や宇宙の中にこそあるものなのかもしれません。
自然から切り離されて、自然をただの物質的現象と捉え、机上の空論を翳すことは可能でしょう。
しかし、人はいざ自然から切り離された状態で「本当の自然の智慧を授かることは出来ないのではないか」そうも思います。
だとしたら、私たちは文明が進めば進む程、生み出す知識は「自然や宇宙の法則から切り離された『ひとりよがりのもの』」となってしまう危険性は否めません。
シャーマン研究家のポール・テンプルは語ります。
「彼らは、私たちの健康状態を感じ取ります。肉体的な領域と精神的な領域のバランスが崩れたり、相対的世界に固執しすぎると、体のバランスが崩れます。どんな状況であっても、病気になるのです。シャーマンの所に行って癒しや浄化が必要だと言えば、吐き気や便意を催す薬草をくれます。まずは浄化して、それだけで肉体と精神のバランスを取り戻せるかを試すのです。
シャーマンにこの薬草のことをドラッグだと言えば、『それは全然違う』と答えるでしょう。『それは君たちの世界観の思いこみだ』と。この薬草はニューワールドのモノであって、異次元世界をつなぐ植物だから、『聖なる』植物として扱わなければならない。サボテンを鍋に入れて何時間も煮込んでいる間に、効果を高めるために良い気を入れることが重要だ。なぜなら、私たちは今世代の聖なる植物の番人だからです。この伝統を継承しているからです。だからこの伝統を尊敬し、大切にしましょう」
私たちはただの「思いこみ」で、何千年も続いてきた伝統を安易に壊したり、否定します。
しかし、「ならば私たちの文明は本当に正しいのか」と言えば──全くもって、そうではありません。
きっとこのペルーの地では、鬱病になった人に対して「大量の薬」が処方されることはないでしょう。
いえ、それどころか鬱病にさえかかることがないかもしれない。その事実だけで、充分「私たちの文明の問題点」が分かるような気がしてきます。
巡礼を前に、ワシューマと呼ばれる飲み物を飲んで儀式を行います。そうすることで、その地の自然との繋がりが強くなるからです。
原住民やシャーマンといった人々は、「いかに人間にとって、自然との繋がりが大切か」を知っている人たちのように思います。
それは「生命の本質」に近い在り方であって、エゴによって自然を支配しようとしている文明人の在り方とはほど遠い。いわば、「共存共栄」であり「調和しあう姿勢」だと、私には思えます。
そうした彼らの在り方を見ると、「文明というものは、人間の進化の産物と呼べるのか」──私は疑問です。
技術が便利になったところで、生物が退化してしまえば「まったくもって意味がない」。明らかに、私たち先進諸国の人たちは肉体的な意味でも、また精神的な意味でも退化してしまっているのではないでしょうか。
シャーマンや原住民の生き方は、私たちに「これからの人類は、どのように自然と共に生きていけばよいのか」という問題を提議してくれている──そんなふうにも感じる次第です。
DVD「地球巡礼者」絶賛発売中。(すでにお持ちの方は、これからの解説も踏まえて視聴して頂けましたら幸甚です。何度みても必要なメッセージが、この中に含まれている──私はそう感じました。)
エハン・デラヴィ最期のトークイベントも受付中です。
17年間の研究成果すべてを聞けるラストチャンスです。
YOU are EARTH 篠崎由羅
2010年03月20日
2010年03月19日
2010年03月18日
地球巡礼者─アースピルグリム(5-1) 地球と人類の調和
今回の章は、今までの章の中で最も多くのメッセージが含まれており、かつ、文明の中で生きる私達にとっては「掴みづらいもの」という印象を受けました。
それだけ非常に深く、潜在的に含まれた意味がある──そう感じたのです。
今回、私は記事にまとめるのが「とても難しい」──そう思いました。
この章の中には「巡礼者として生きる在り方」と「シャーマンという、自然と宇宙に直結した存在」の両者が描かれていたからです。
そこで悩んだ結果、この章に関しては「巡礼者として生きる在り方」と「シャーマンの(自然と共に生きる)在り方」の二つに分けることにしました。
今回は、「巡礼者として生きる在り方──地球と人類の調和」について、記事にしたいと思います。
一番最初の解説で、私は「この地球巡礼者という映画そのものが、土着した民族性である日本人に理解出来るか疑問だった」と書きましたが、今回の章はそれが如実に描かれていました。
しかし、「だからこそ」──この章は、私達にとって「とても大切な章なのだ」と、そう思えるのです。
前回の章では「太陽系そのものが巡礼している」という問題提起──すなわち「生命の在り方そのものが、巡礼という方式の中にあるのではないか」という疑義が描かれていました。
そして、今回の章ではその前の章(3)にある「世界的な危機」、および(4)の「環境への適応と、生命そのものが巡礼者であることを受け入れることによる進化」を複合させ、「その答え」を模索する為「ペルーの巡礼の旅」が描かれています。
ペルーの巡礼、そしてペルーの人達が感じる自然への畏敬に関し、レネ・フランコ・サラスはこのように語っています。
「私たちは祖先の伝統を継承しています。祖先は自然を敬い、大切に守ってきました。山やジャングルからやって来た彼らは、母なる大地”パチャママ”に畏敬の念を抱いていました。”パチャママ”は、神でも人でもありません。宇宙に存在する万物の完全なる調和です。太陽も月も、その一部です」
「神でも、人でもない」──。
ここに、ペルーの人達独特の「信仰心」があるように思いました。
要するに、彼らが祈っているのは利益や繁栄の為ではなく、共存と調和の為なのだ──と。
もしかしたら、私たち文明人の考え方と「最も違う」のは、その点なのかもしれません。
「人類に調和が訪れることを祈るのであれば、まず最初に、自らの内なる調和を見つけることから始めれば良い」
ナレーターの語る言葉に、私達が求めなければならない姿勢が示唆されているのかもしれません。
レネ・フランコ・サラスは語ります。
「この巡礼は”星と雪の祭り(ルビ・コイヨリッティ)”と呼ばれています。生命と自然を敬い、感謝する一種の形式に過ぎません。すべての生物に生命を与え、維持する要素がここにあります。(中略)
ここアンデスの社会には、自然の秩序が存在します。”アイニ”というバランスを保つ方法です。”アイニ”とは、お互いに助け合い、分け合い、他人のために尽くすシステムなのです」
自然と共存しあう人達は、大地も、草木も、すべては「生きている神聖な存在」として見ています。しかし、私達文明人にとってそれは「物質のひとつ」でしかありません。
地球も「ただの鉱物」──そうとしか思っていない科学者や地質学者は、大勢いることでしょう。
しかし、すべてが「生命である」──そういう視点に立ち返ることで、私達は多くの気づきと、今ある危機の回避と、同時に「何が過ちだったのか」に、気づける謙虚さを持てるかもしれません。
アプ・コイヨリッティという、とても高い山の頂きにある「氷」を取りにいく巡礼に、エハン・デラヴィとスタッフは参加しました。
そこには毎年、6万にも及ぶ人達が巡礼に訪れるそうです。とても過酷な、高山の道をひたすら登り続ける巡礼。
彼らを突き動かすのは、ひとえに「信仰心」であり、そこにはいっさいの疑念も猜疑心もないのです。
ここにある宗教は「スペインに侵攻された歴史」が物語るかのように、キリスト教と水を信仰する先住民の民俗宗教が合致したものです。
これを見れば、「宗教は形ではないし、祈る対象が問題なのではない」ことが、お分かり頂けるはずです。
宗教に必要なのは、形式ではなく──「信仰心」それだけなのだ、ということが。
周りの環境に感謝し、与えられていることに感謝出来る──それこそが、大切なのだということも。
地球巡礼者──。
これは、ただひとつのテーマだけで語れない「壮大な内容なのだ」ということを、私は実感せずにいられませんでした。
地球巡礼──すなわち「今まで地球が経てきた歴史」イコール「人類が犯してきた過ち」をも、振り返らないことには話を進められないからです。
だからこそ、私はウェイド・デイヴィスの言葉が印象的でした。
「原住民は、環境の変化は自分たちの責任だと考えます。これは悲劇的なことです。"ヒマラヤ"や"アンデス"の人々は地球は生きていると信じ、山の神の存在を信じています。物事がゆがめば、自分の問題ととらえます。
最も胸が痛くなる一例が、コイヨリッティなのです。
伝統的に見ると、先住民族の宗教文化とキリスト教文化の融合です。アンデス世界をよく表しています。インカの文化と同様に、カトリックの影響を受けているのです。
巡礼は神聖なる活動になります。地域から持ってきた十字架を担いで登り、シナカラを見下ろす氷河の頂に、それを打ち立て、一晩置いてパワーを注入し持ち帰ります。
昔は氷のかたまりも持ち帰っていたのですが、氷河の危機を知ってからは、持ち帰らなくなりました。自分たちの責任だと思っているのです。氷河から削られた氷のかたまりは、巡礼に参加できない人のために持ち帰られていたのです。それは溶ける量に比べればごく僅かです。
人間の大量虐殺は、必ず非難を受けますが、直接的でも間接的でも、民族文化の破壊は非難されません。むしろ"発展途上"の問題として推奨されているのが現状です。
人類学の世界にいる人間は、民族文化を閉じこめることは勧めません。博物館用の生きた標本ではないのですから。
"変化"は文化の脅威ではありません。
すべての文化が、変化を受け入れてきました。テクノロジーは脅威の対象ではないです。インターネットは自由を与えるツールとして、世界的に人に力を与えてくれるのです。ラコタ族が弓矢をライフルに持ち替えても、ラコタ族に変わりはありません。私たちが、馬車を車に変えても、人種は変化しないのと同じです。文化は繊細で壊れやすく、"消えゆく運命"だと考えるのは正しくありません。
変化や技術ではなく、権力に脅かされているのです」
この言葉──。私達日本人も、聞いていて苦しくなるのではないでしょうか?
私達の文化は、今、どこにあるのでしょう。
着物を着ている人が、街をどれだけ歩いているでしょうか? 畳の上で、正座をして暮らしている人が、どれだけいるでしょうか?
文化はいつしか「ファッション」となり、日本人特有の文化であった「道(茶道・剣道・柔道)」も、ただの作法になり果てている──。
文化──。
失ってはいけないものが、日本の中で失われつつあります。
私達は戦争ですべてを失った後、高度経済成長やバブル期を経て豊かになったものの、「もっと大切だった日本人の精神性」を失ってしまったのかもしれない──そんなふうに思わずにいられませんでした。
ウェイド・デイヴィスは、とても大切な言葉で締めくくっています。
「著書にも書きましたが、望みは残されています。文化を破壊するのは人間ですが、しかし人間は、保存の促進もできるのです。この"破壊"のプロセスは、自然界から起きるものだとすれば、まったく何もできない。
しかし、決してそうでないから選択が可能です。
先住民の文化を昔のままに固定しないで、逆に、どういう生活をしたいのかを自問し、すべての民族の経験と知識を集め、多くを学べる多文化の世界をどうやって築いていくかを考えることです」
この文化の在り方については、日本人も決して他人事ではないはずです。
もしかしたら──未来の地球では民族、血縁、人種いっさい関係なく「文化による棲み分け」が、行われているかもしれませんね(笑)。
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それだけ非常に深く、潜在的に含まれた意味がある──そう感じたのです。
今回、私は記事にまとめるのが「とても難しい」──そう思いました。
この章の中には「巡礼者として生きる在り方」と「シャーマンという、自然と宇宙に直結した存在」の両者が描かれていたからです。
そこで悩んだ結果、この章に関しては「巡礼者として生きる在り方」と「シャーマンの(自然と共に生きる)在り方」の二つに分けることにしました。
今回は、「巡礼者として生きる在り方──地球と人類の調和」について、記事にしたいと思います。
一番最初の解説で、私は「この地球巡礼者という映画そのものが、土着した民族性である日本人に理解出来るか疑問だった」と書きましたが、今回の章はそれが如実に描かれていました。
しかし、「だからこそ」──この章は、私達にとって「とても大切な章なのだ」と、そう思えるのです。
前回の章では「太陽系そのものが巡礼している」という問題提起──すなわち「生命の在り方そのものが、巡礼という方式の中にあるのではないか」という疑義が描かれていました。
そして、今回の章ではその前の章(3)にある「世界的な危機」、および(4)の「環境への適応と、生命そのものが巡礼者であることを受け入れることによる進化」を複合させ、「その答え」を模索する為「ペルーの巡礼の旅」が描かれています。
ペルーの巡礼、そしてペルーの人達が感じる自然への畏敬に関し、レネ・フランコ・サラスはこのように語っています。
「私たちは祖先の伝統を継承しています。祖先は自然を敬い、大切に守ってきました。山やジャングルからやって来た彼らは、母なる大地”パチャママ”に畏敬の念を抱いていました。”パチャママ”は、神でも人でもありません。宇宙に存在する万物の完全なる調和です。太陽も月も、その一部です」
「神でも、人でもない」──。
ここに、ペルーの人達独特の「信仰心」があるように思いました。
要するに、彼らが祈っているのは利益や繁栄の為ではなく、共存と調和の為なのだ──と。
もしかしたら、私たち文明人の考え方と「最も違う」のは、その点なのかもしれません。
「人類に調和が訪れることを祈るのであれば、まず最初に、自らの内なる調和を見つけることから始めれば良い」
ナレーターの語る言葉に、私達が求めなければならない姿勢が示唆されているのかもしれません。
レネ・フランコ・サラスは語ります。
「この巡礼は”星と雪の祭り(ルビ・コイヨリッティ)”と呼ばれています。生命と自然を敬い、感謝する一種の形式に過ぎません。すべての生物に生命を与え、維持する要素がここにあります。(中略)
ここアンデスの社会には、自然の秩序が存在します。”アイニ”というバランスを保つ方法です。”アイニ”とは、お互いに助け合い、分け合い、他人のために尽くすシステムなのです」
自然と共存しあう人達は、大地も、草木も、すべては「生きている神聖な存在」として見ています。しかし、私達文明人にとってそれは「物質のひとつ」でしかありません。
地球も「ただの鉱物」──そうとしか思っていない科学者や地質学者は、大勢いることでしょう。
しかし、すべてが「生命である」──そういう視点に立ち返ることで、私達は多くの気づきと、今ある危機の回避と、同時に「何が過ちだったのか」に、気づける謙虚さを持てるかもしれません。
アプ・コイヨリッティという、とても高い山の頂きにある「氷」を取りにいく巡礼に、エハン・デラヴィとスタッフは参加しました。
そこには毎年、6万にも及ぶ人達が巡礼に訪れるそうです。とても過酷な、高山の道をひたすら登り続ける巡礼。
彼らを突き動かすのは、ひとえに「信仰心」であり、そこにはいっさいの疑念も猜疑心もないのです。
ここにある宗教は「スペインに侵攻された歴史」が物語るかのように、キリスト教と水を信仰する先住民の民俗宗教が合致したものです。
これを見れば、「宗教は形ではないし、祈る対象が問題なのではない」ことが、お分かり頂けるはずです。
宗教に必要なのは、形式ではなく──「信仰心」それだけなのだ、ということが。
周りの環境に感謝し、与えられていることに感謝出来る──それこそが、大切なのだということも。
地球巡礼者──。
これは、ただひとつのテーマだけで語れない「壮大な内容なのだ」ということを、私は実感せずにいられませんでした。
地球巡礼──すなわち「今まで地球が経てきた歴史」イコール「人類が犯してきた過ち」をも、振り返らないことには話を進められないからです。
だからこそ、私はウェイド・デイヴィスの言葉が印象的でした。
「原住民は、環境の変化は自分たちの責任だと考えます。これは悲劇的なことです。"ヒマラヤ"や"アンデス"の人々は地球は生きていると信じ、山の神の存在を信じています。物事がゆがめば、自分の問題ととらえます。
最も胸が痛くなる一例が、コイヨリッティなのです。
伝統的に見ると、先住民族の宗教文化とキリスト教文化の融合です。アンデス世界をよく表しています。インカの文化と同様に、カトリックの影響を受けているのです。
巡礼は神聖なる活動になります。地域から持ってきた十字架を担いで登り、シナカラを見下ろす氷河の頂に、それを打ち立て、一晩置いてパワーを注入し持ち帰ります。
昔は氷のかたまりも持ち帰っていたのですが、氷河の危機を知ってからは、持ち帰らなくなりました。自分たちの責任だと思っているのです。氷河から削られた氷のかたまりは、巡礼に参加できない人のために持ち帰られていたのです。それは溶ける量に比べればごく僅かです。
人間の大量虐殺は、必ず非難を受けますが、直接的でも間接的でも、民族文化の破壊は非難されません。むしろ"発展途上"の問題として推奨されているのが現状です。
人類学の世界にいる人間は、民族文化を閉じこめることは勧めません。博物館用の生きた標本ではないのですから。
"変化"は文化の脅威ではありません。
すべての文化が、変化を受け入れてきました。テクノロジーは脅威の対象ではないです。インターネットは自由を与えるツールとして、世界的に人に力を与えてくれるのです。ラコタ族が弓矢をライフルに持ち替えても、ラコタ族に変わりはありません。私たちが、馬車を車に変えても、人種は変化しないのと同じです。文化は繊細で壊れやすく、"消えゆく運命"だと考えるのは正しくありません。
変化や技術ではなく、権力に脅かされているのです」
この言葉──。私達日本人も、聞いていて苦しくなるのではないでしょうか?
私達の文化は、今、どこにあるのでしょう。
着物を着ている人が、街をどれだけ歩いているでしょうか? 畳の上で、正座をして暮らしている人が、どれだけいるでしょうか?
文化はいつしか「ファッション」となり、日本人特有の文化であった「道(茶道・剣道・柔道)」も、ただの作法になり果てている──。
文化──。
失ってはいけないものが、日本の中で失われつつあります。
私達は戦争ですべてを失った後、高度経済成長やバブル期を経て豊かになったものの、「もっと大切だった日本人の精神性」を失ってしまったのかもしれない──そんなふうに思わずにいられませんでした。
ウェイド・デイヴィスは、とても大切な言葉で締めくくっています。
「著書にも書きましたが、望みは残されています。文化を破壊するのは人間ですが、しかし人間は、保存の促進もできるのです。この"破壊"のプロセスは、自然界から起きるものだとすれば、まったく何もできない。
しかし、決してそうでないから選択が可能です。
先住民の文化を昔のままに固定しないで、逆に、どういう生活をしたいのかを自問し、すべての民族の経験と知識を集め、多くを学べる多文化の世界をどうやって築いていくかを考えることです」
この文化の在り方については、日本人も決して他人事ではないはずです。
もしかしたら──未来の地球では民族、血縁、人種いっさい関係なく「文化による棲み分け」が、行われているかもしれませんね(笑)。
DVD「地球巡礼者」絶賛発売中。(すでにお持ちの方は、これからの解説も踏まえて視聴して頂けましたら幸甚です。何度みても必要なメッセージが、この中に含まれている──私はそう感じました。)
エハン・デラヴィ最期のトークイベントも受付中です。
17年間の研究成果すべてを聞けるラストチャンスです。
YOU are EARTH 篠崎由羅
Posted by エハン at
23:20
2010年03月16日
地球巡礼者─アースピルグリム─(4)宇宙でさえもが、巡礼者
「私たちの宇宙観は間違っているかもしれない。真実の宇宙の本質を把握した方がより良い」
カール・セーガン
(3)の章では「世界が直面している経済問題」などがテーマでしたが、今回はさらに視点が広がります。
DVD「アースピルグリム」の構成は、まず「個人レベル」での存在意義──それが「巡礼である」とされているわけですが──から始まり、次の章で今まで私たちの精神的土台とされてきた宗教の在り方に疑義を投げかけ、そして「世界の現実問題」を直視し、「私たちを取り巻く環境、宇宙そのものを、本当に自分達は正しく理解出来ているのだろうか」という問題提議へと至ります。
物理学者のナシーム・ハラメインは、こう語っています。
「私は、人類が非常に重要な分岐点に達していると考えています。『事象の地平線を越える』と呼んでいます。
まだ選択の余地がある重要な時期なのです。競争や戦争を中心とした生活を継続して、自滅の道を歩むのか、それとも、大切な教訓を学ぶのかは私たちの意思次第です」
競争や戦争を中心とした生活。
これはそもそも、どこから来たのでしょうか?
弱肉強食とされる競争主義は、ダーウィンの進化論との結びつきが高いとよく言われています。
しかし、本来「生命の進化の在り方は、まったく違う」と唱えた学者もいたのです。
それが、ジャン・バティスト・ラマルク(1809~1882)です。
エハン・デラヴィの著書「人類が変容する日」に、ジャンが提唱した「進化論」が記されています。
──以下転載──
彼が提唱したのは、お互い協力し合う者は、長く生き残るということでした。
言い換えれば、環境の変化に対応していく、委ねていく生命体が繁栄するということなのです。ラマルクの言っていることは、ダーウィンとはぜんぜん違うわけです。
そして、その危機を体験することによって、生命体はどんどん進化していくということ。彼は、進化について言えば、危機は良いことだと思ったんですね。危機は悪いことではなく、それがあってこそ、進化のスピードが速くなるということです。(中略)
そして、何が一番大切かというと、その生命体をとりまく環境だと言ったのです。(P35から引用)
──転載以上──
ここで言われる「危機」──。
これは、今まさしく私たち人類が置かれている現状ではないでしょうか?
「新たな面から宇宙を理解すれば、万物のつながりを実感できるでしょう。人類と宇宙との関係を理解できるのです。まだ手遅れではありません。私たちは、まだ分岐点にいるのですから」
分岐点。
それを実感している人達は、おそらく今この記事を読んで下さっている方々以上に「大勢いるのではないか」──そう感じます。
精神世界のことを何も知らない人達も、感じているはずです。それは、新聞の社会記事から──ニュースの報道から、そして、連続する地震、異常気象からも感じ取っているはずです。
私たちの生命体をとりまく環境が、「まさに危機的状況」にあり、
そして、私たちは誰ひとり例外なく「今、岐路に立たされているのだ」と。
ナシーム・ハラメインは続けます。
「私が思うに実際、私たち人類は、混乱が増している非常に張りつめた状況にいます。ますます多くの情報やエネルギーが、社会に注がれているからです。すべてが吹き飛びそうな方向へ私たちは進んでいるのです。それほど危機的な状況です。私たちが人とつながり続け、協力して次のレベルに進むことができるとしたら、再びすべてが調和した世界を手に入れることが出来るでしょう」
調和した世界──。
今の現実を振り返った際、それが一体どこに存在しているというのでしょう。
私たちは便利になった生活と引き替えに、大切なものを失ってしまった。
それが、自然と一体化した生活──「宇宙とのつながり」です。
でも、それはただ瞑想して、社会を断絶して、ただひとり苦行者となれば取り戻せるようなものではなく、「人と人が、生命や、自然とつながりあう共存共栄を目指してこそ、再びとりもどせる絆」なのだと、私はそう思います。
そうでなければ、何故、創造主はこの世界に「これほど多くの人々と、生命を育んだ」のでしょう?
たったひとりの修行だけですべてケリがつくのであれば──地球にこれほど多くの命も、人種も、動物達も「必要なかったはず」です。
私たちは「自分達が何故、この地球に存在するのか」を思い出し、そして、ラマルクが言うように「協力しあってこそ、進化の道」を辿れるのであるとしたら──まずは、「私たちの存在意義を思い出すのと同時に、私達を取り巻く環境に対する本当の理解をすること」が大切になってくるのかもしれません。
だからこそ、この章で「宇宙に対する理解への疑義」が、提示されるのでしょう。
人智学者・ルドルフ・シュタイナーも、「人々が目にしている宇宙は、本質の宇宙ではない。喩えていえば、宇宙の肉体を見ているようなものでしかない」という表現をしていました。
それは、ひとりの人間を理解しようとした時、その人がどんな生き方をしてきて、何を思い、どんな価値観の中にあったかといった「存在意義」をいっさい問わず、「肌の色が黄色い」「目が黒い」「髪は黒い」「鼻はひとつで口もひとつだ」と、そんな表層的な部分しか問い沙汰してないのと同じことなのではないでしょうか?
もしも私たちが、「宇宙の在り方」「生命の在り方」すべてを誤解していたとしたら──ただの「表層的なうわべ」だけで論じているのだとしたら、「環境問題」「世界の問題」を論じるその姿勢さえも間違えていないだろうか──そう、この映画では問いかけています。
ナシーム・ハラメインは「太陽を中心に惑星が廻っている」という考え方自体が、「馬鹿げている」と指摘します。
「太陽系そのものが、移動しているのだ」と。
そして、他の惑星も共に移動していると。
太陽系そのものが、宇宙を巡礼している──これは非常に驚くべき、そして、とても斬新な視点です。
私たちが「巡礼者」だということに気づけば、次のステージに進んでいける──。
グラハム・ハンコックは「時代が終焉を迎えているのかもしれない」、そう告げています。
「私たちの世代には、すべての生物が時代の終わりを迎えているのかもしれません。今までの終末論や予言のように、大きな変動がすぐ目の前に迫っているのです。何も考えず、何の準備もせずに、その時を迎えるのは、とても恐ろしいことです。私たちはこれから起こることに、無関心すぎるのです」
古い殻にしがみつけばしがみつく程、我々は変化を否定していることになる──。
それは、滅びかかった「資本主義」というシステムにしがみつき、利益主義に走り、いまだ「独占」「支配」という考えから離れず、あえぎ苦しむ人類を指し示しているようにも思えます。
私たちが「巡礼者」であるということに気づくということは──同時に、「私たちは何も持っていないのだ」という気づきへと導きます。
ピース・ピルグリムは、こう語っています。
「私は何も所有していません。それが巡礼者の在り方です」
これは、私たちにもそのまま言えることではないでしょうか?
私たちは生まれてくる時、何も持って生まれてこなかった。
そして死ぬ時も、何も持って行けないのです。
そうした「人間の根本的な存在意義」こそが、すでに巡礼者の在り方であるというのに、私たちは生きている最中あれやこれやと所有したがり、執着し、支配し、独占したがる。
もうその時点で、私たちは「道を誤っている」のかもしれません。
宇宙も巡礼者であるとしたならば、フラクタル理論で考えたって同じように人類も「そう」であるとしか言いようがないのかもしれない。
そしてそれは、誰もが「本来気づいていながら、『気づいてないフリをしている』だけ」なのかもしれません。
私たちは「何も所有していない」。
「何ひとつ、私たちのものではない」。
肉体でさえ、「借り物でしかない」。
そう気づいていながらも、「気づいてないフリ」をして、その不安をかき消すように物に執着し、人に依存し、お金を求め、ただ現世利益的な願望のみを求める──。
そうすればする程、苦悩が増すことに気づいていながら──それでもまだ、「気づかないフリ」をしている……。
もう私たちは、「本当の生命の意味(私たち人類の存在する意味)」に目覚めなければならない時に、来ているのかもしれません。
DVD「地球巡礼者」絶賛発売中。(すでにお持ちの方は、これからの解説も踏まえて視聴して頂けましたら幸甚です。何度みても必要なメッセージが、この中に含まれている──私はそう感じました。)
エハン・デラヴィ最期のトークイベントも受付中です。
17年間の研究成果すべてを聞けるラストチャンスです。
【参考文献】
文責:YOU are EARTH 篠崎由羅
カール・セーガン
(3)の章では「世界が直面している経済問題」などがテーマでしたが、今回はさらに視点が広がります。
DVD「アースピルグリム」の構成は、まず「個人レベル」での存在意義──それが「巡礼である」とされているわけですが──から始まり、次の章で今まで私たちの精神的土台とされてきた宗教の在り方に疑義を投げかけ、そして「世界の現実問題」を直視し、「私たちを取り巻く環境、宇宙そのものを、本当に自分達は正しく理解出来ているのだろうか」という問題提議へと至ります。
物理学者のナシーム・ハラメインは、こう語っています。
「私は、人類が非常に重要な分岐点に達していると考えています。『事象の地平線を越える』と呼んでいます。
まだ選択の余地がある重要な時期なのです。競争や戦争を中心とした生活を継続して、自滅の道を歩むのか、それとも、大切な教訓を学ぶのかは私たちの意思次第です」
競争や戦争を中心とした生活。
これはそもそも、どこから来たのでしょうか?
弱肉強食とされる競争主義は、ダーウィンの進化論との結びつきが高いとよく言われています。
しかし、本来「生命の進化の在り方は、まったく違う」と唱えた学者もいたのです。
それが、ジャン・バティスト・ラマルク(1809~1882)です。
エハン・デラヴィの著書「人類が変容する日」に、ジャンが提唱した「進化論」が記されています。
──以下転載──
彼が提唱したのは、お互い協力し合う者は、長く生き残るということでした。
言い換えれば、環境の変化に対応していく、委ねていく生命体が繁栄するということなのです。ラマルクの言っていることは、ダーウィンとはぜんぜん違うわけです。
そして、その危機を体験することによって、生命体はどんどん進化していくということ。彼は、進化について言えば、危機は良いことだと思ったんですね。危機は悪いことではなく、それがあってこそ、進化のスピードが速くなるということです。(中略)
そして、何が一番大切かというと、その生命体をとりまく環境だと言ったのです。(P35から引用)
──転載以上──
ここで言われる「危機」──。
これは、今まさしく私たち人類が置かれている現状ではないでしょうか?
「新たな面から宇宙を理解すれば、万物のつながりを実感できるでしょう。人類と宇宙との関係を理解できるのです。まだ手遅れではありません。私たちは、まだ分岐点にいるのですから」
分岐点。
それを実感している人達は、おそらく今この記事を読んで下さっている方々以上に「大勢いるのではないか」──そう感じます。
精神世界のことを何も知らない人達も、感じているはずです。それは、新聞の社会記事から──ニュースの報道から、そして、連続する地震、異常気象からも感じ取っているはずです。
私たちの生命体をとりまく環境が、「まさに危機的状況」にあり、
そして、私たちは誰ひとり例外なく「今、岐路に立たされているのだ」と。
ナシーム・ハラメインは続けます。
「私が思うに実際、私たち人類は、混乱が増している非常に張りつめた状況にいます。ますます多くの情報やエネルギーが、社会に注がれているからです。すべてが吹き飛びそうな方向へ私たちは進んでいるのです。それほど危機的な状況です。私たちが人とつながり続け、協力して次のレベルに進むことができるとしたら、再びすべてが調和した世界を手に入れることが出来るでしょう」
調和した世界──。
今の現実を振り返った際、それが一体どこに存在しているというのでしょう。
私たちは便利になった生活と引き替えに、大切なものを失ってしまった。
それが、自然と一体化した生活──「宇宙とのつながり」です。
でも、それはただ瞑想して、社会を断絶して、ただひとり苦行者となれば取り戻せるようなものではなく、「人と人が、生命や、自然とつながりあう共存共栄を目指してこそ、再びとりもどせる絆」なのだと、私はそう思います。
そうでなければ、何故、創造主はこの世界に「これほど多くの人々と、生命を育んだ」のでしょう?
たったひとりの修行だけですべてケリがつくのであれば──地球にこれほど多くの命も、人種も、動物達も「必要なかったはず」です。
私たちは「自分達が何故、この地球に存在するのか」を思い出し、そして、ラマルクが言うように「協力しあってこそ、進化の道」を辿れるのであるとしたら──まずは、「私たちの存在意義を思い出すのと同時に、私達を取り巻く環境に対する本当の理解をすること」が大切になってくるのかもしれません。
だからこそ、この章で「宇宙に対する理解への疑義」が、提示されるのでしょう。
人智学者・ルドルフ・シュタイナーも、「人々が目にしている宇宙は、本質の宇宙ではない。喩えていえば、宇宙の肉体を見ているようなものでしかない」という表現をしていました。
それは、ひとりの人間を理解しようとした時、その人がどんな生き方をしてきて、何を思い、どんな価値観の中にあったかといった「存在意義」をいっさい問わず、「肌の色が黄色い」「目が黒い」「髪は黒い」「鼻はひとつで口もひとつだ」と、そんな表層的な部分しか問い沙汰してないのと同じことなのではないでしょうか?
もしも私たちが、「宇宙の在り方」「生命の在り方」すべてを誤解していたとしたら──ただの「表層的なうわべ」だけで論じているのだとしたら、「環境問題」「世界の問題」を論じるその姿勢さえも間違えていないだろうか──そう、この映画では問いかけています。
ナシーム・ハラメインは「太陽を中心に惑星が廻っている」という考え方自体が、「馬鹿げている」と指摘します。
「太陽系そのものが、移動しているのだ」と。
そして、他の惑星も共に移動していると。
太陽系そのものが、宇宙を巡礼している──これは非常に驚くべき、そして、とても斬新な視点です。
私たちが「巡礼者」だということに気づけば、次のステージに進んでいける──。
グラハム・ハンコックは「時代が終焉を迎えているのかもしれない」、そう告げています。
「私たちの世代には、すべての生物が時代の終わりを迎えているのかもしれません。今までの終末論や予言のように、大きな変動がすぐ目の前に迫っているのです。何も考えず、何の準備もせずに、その時を迎えるのは、とても恐ろしいことです。私たちはこれから起こることに、無関心すぎるのです」
古い殻にしがみつけばしがみつく程、我々は変化を否定していることになる──。
それは、滅びかかった「資本主義」というシステムにしがみつき、利益主義に走り、いまだ「独占」「支配」という考えから離れず、あえぎ苦しむ人類を指し示しているようにも思えます。
私たちが「巡礼者」であるということに気づくということは──同時に、「私たちは何も持っていないのだ」という気づきへと導きます。
ピース・ピルグリムは、こう語っています。
「私は何も所有していません。それが巡礼者の在り方です」
これは、私たちにもそのまま言えることではないでしょうか?
私たちは生まれてくる時、何も持って生まれてこなかった。
そして死ぬ時も、何も持って行けないのです。
そうした「人間の根本的な存在意義」こそが、すでに巡礼者の在り方であるというのに、私たちは生きている最中あれやこれやと所有したがり、執着し、支配し、独占したがる。
もうその時点で、私たちは「道を誤っている」のかもしれません。
宇宙も巡礼者であるとしたならば、フラクタル理論で考えたって同じように人類も「そう」であるとしか言いようがないのかもしれない。
そしてそれは、誰もが「本来気づいていながら、『気づいてないフリをしている』だけ」なのかもしれません。
私たちは「何も所有していない」。
「何ひとつ、私たちのものではない」。
肉体でさえ、「借り物でしかない」。
そう気づいていながらも、「気づいてないフリ」をして、その不安をかき消すように物に執着し、人に依存し、お金を求め、ただ現世利益的な願望のみを求める──。
そうすればする程、苦悩が増すことに気づいていながら──それでもまだ、「気づかないフリ」をしている……。
もう私たちは、「本当の生命の意味(私たち人類の存在する意味)」に目覚めなければならない時に、来ているのかもしれません。
DVD「地球巡礼者」絶賛発売中。(すでにお持ちの方は、これからの解説も踏まえて視聴して頂けましたら幸甚です。何度みても必要なメッセージが、この中に含まれている──私はそう感じました。)
エハン・デラヴィ最期のトークイベントも受付中です。
17年間の研究成果すべてを聞けるラストチャンスです。
【参考文献】
文責:YOU are EARTH 篠崎由羅
Posted by エハン at
13:03
2010年03月13日
地球巡礼者─アースピルグリム─(3)人類が過ち、失ったもの
こんにちは、YOU are EARTHの篠崎です。
今回の(3)は前回までの章と違って、私達に直接的に関わる問題がテーマになっています。
いわゆる「社会問題」であり「経済問題」。
しかし、これを精神性や意識と切り離して考えることは間違いです。何故なら目に見える現実は、意識の結果の現れでしかないからです。
逆に言えば、私達の意識が変わらない限り「悲惨な現実は、いつまでも続いてしまうことになる」のでしょう。
「ナショナル・ジオ・グラフィック番組」などでも有名な人類学者ウェイド・デイヴィスは、90年代初頭から現在まで続いている経済不況について、このように説明しています。
「金融市場の破綻の原因は、90年代前半にMITの大学院生の案を採用したことでした。(中略)金融破綻の根源は、住宅ローンや借金に、保険をかけるという考えです。
会社が返済を保証するので、どんどん借金ができるのです。それを続ければ、借金は膨らんでいきます。突然、お金を手軽に借りられるようになったのです。返済が滞らないことを前提として行われていたことですが、返済できなければシステムは破綻します。
例えばひとつ例をあげると、ある保険会社が不動産そのものではなく、借金の保証をするとします。家が全焼したら保険会社は、損害を補填します。しかし保証する借金の額が膨らめば、システム全体が崩壊します。それが現状なのです」
今では人体の保険だけでなく、様々なものにつけられるようになった「保険制度」。
これが一番最初に登場したのは、中世ヨーロッパ時代──キリスト教絶世の頃でした。その頃はいわゆる「相互扶助」の意識のもとに誕生したものが、様々な改正を加えられるうちに、現代の保険制度へと変わっていったのでしょう。
お金は「目に見えます」。手にもすることが出来ます。
でも、その全体システムは、誰の目にも見えません。だからこそ、手探りで方策を練らねばならないのでしょう。
それこそが、映画の中でも語られていたグローバル的な病。その根源の要因を探らない限り、治療は出来ない──。その通りなのかもしれません。
また、物理学者のナシム・ハラメインはこう言います。
「この事態を引き起こしたのは私達人間なのです」と。「宇宙空間に破壊的行為を投げかけたのだから」。
確かにそうですね。
それは、日本もよく分かっているはずです。広島と長崎に落とされた原爆──未だに、被爆者の人達は存在し、その影響は新たに生まれる生命まで影響しているのです。
それは人間だけが被害者なのでしょうか?
いいえ。原爆が落とされたことで──どこかの海で核ミサイル実験が起こることで、そこにいる全生命が命を奪われ、生態系のすべてが崩されているのです。
そうしたのは、一体誰でしょう?
「どこぞの国のおえらいさん」だけではありません。
「自分は一市民だから関係ない」そんなふうに思ってしまう視点──世の中の悲劇を「他人事」として捉えてしまう「視点」──そうした「無関心」こそが、今、こうした問題を引き起こしているのだと、私にはそう思えます。
この世に生きている以上、誰もが幸福になる権利があります。
でも、それと同時に、「誰かが理不尽な差別を強要され、幸福を享受出来ないのだとしたら、その責任は自分にもあるのだ」と──私は、いつもそう思っています。
社会を壊したのは、地球を痛めつけたのは──誰でもない。
「私達なのだ」と──。
だからこそ、私達は今「自分達がした行為」として、様々な問題と対峙する結果となっているのでしょう。
ナシム・ハラメインはこう結んでいます。
「私たちは、気づかなければなりません。『これは、望んでいた世界ではない』と。そして、自然との調和のため行動を起こすのです。互いに支え合えば、事態はすぐに快方へ向かうことでしょう」と。
サティシュ・クマールも、このように言っていました。
「経済よりも環境を優先すべきです。それができなければ、最低でも環境と経済は、同等に扱うべきです。
経済だけではバランスが取れません。社会のバランスが崩れているのは、環境を理解していないからです。
私たちが作り上げた経済システムは、混乱や地球温暖化、世界規模の飢餓や貧困を引き起こし、人々の心を疲弊させ、人間の幸福を奪いました。これが経済と環境を切り離してきた結果なのです。」
こうした生活が、結果的に「人間への心理的負担」に繋がっています。
便利さ、合理性は、私達に何を与えてくれたのでしょうか?
「所有で幸せは得られない。欲望のままに消費する生活からは、不幸しか生まれません。
現実に目を向ければ、すぐに分かります。ここ2~300年で築き上げた生活様式は、好ましい結果をもたらさなかったと。
世界を再設計するためには、意識改革が必要なのです。
私達が想像力や精神性を重んじることの重要性に気づけば、世界を変えることは可能です。(中略)必要性と調和を基に、世界を再設計するべきです」
私達はとても重大な時代に生まれ、重大な歴史を見、重大な決断を迫られている──。
そう感じた方は、決して少なくないはずです。
DVD「地球巡礼者」絶賛発売中。(すでにお持ちの方は、これからの解説も踏まえて視聴して頂けましたら幸甚です。何度みても必要なメッセージが、この中に含まれている──私はそう感じました。)
エハン・デラヴィ最期のトークイベントも受付中です。
17年間の研究成果すべてを聞けるラストチャンスです。
今回の(3)は前回までの章と違って、私達に直接的に関わる問題がテーマになっています。
いわゆる「社会問題」であり「経済問題」。
しかし、これを精神性や意識と切り離して考えることは間違いです。何故なら目に見える現実は、意識の結果の現れでしかないからです。
逆に言えば、私達の意識が変わらない限り「悲惨な現実は、いつまでも続いてしまうことになる」のでしょう。
「ナショナル・ジオ・グラフィック番組」などでも有名な人類学者ウェイド・デイヴィスは、90年代初頭から現在まで続いている経済不況について、このように説明しています。
「金融市場の破綻の原因は、90年代前半にMITの大学院生の案を採用したことでした。(中略)金融破綻の根源は、住宅ローンや借金に、保険をかけるという考えです。
会社が返済を保証するので、どんどん借金ができるのです。それを続ければ、借金は膨らんでいきます。突然、お金を手軽に借りられるようになったのです。返済が滞らないことを前提として行われていたことですが、返済できなければシステムは破綻します。
例えばひとつ例をあげると、ある保険会社が不動産そのものではなく、借金の保証をするとします。家が全焼したら保険会社は、損害を補填します。しかし保証する借金の額が膨らめば、システム全体が崩壊します。それが現状なのです」
今では人体の保険だけでなく、様々なものにつけられるようになった「保険制度」。
これが一番最初に登場したのは、中世ヨーロッパ時代──キリスト教絶世の頃でした。その頃はいわゆる「相互扶助」の意識のもとに誕生したものが、様々な改正を加えられるうちに、現代の保険制度へと変わっていったのでしょう。
お金は「目に見えます」。手にもすることが出来ます。
でも、その全体システムは、誰の目にも見えません。だからこそ、手探りで方策を練らねばならないのでしょう。
それこそが、映画の中でも語られていたグローバル的な病。その根源の要因を探らない限り、治療は出来ない──。その通りなのかもしれません。
また、物理学者のナシム・ハラメインはこう言います。
「この事態を引き起こしたのは私達人間なのです」と。「宇宙空間に破壊的行為を投げかけたのだから」。
確かにそうですね。
それは、日本もよく分かっているはずです。広島と長崎に落とされた原爆──未だに、被爆者の人達は存在し、その影響は新たに生まれる生命まで影響しているのです。
それは人間だけが被害者なのでしょうか?
いいえ。原爆が落とされたことで──どこかの海で核ミサイル実験が起こることで、そこにいる全生命が命を奪われ、生態系のすべてが崩されているのです。
そうしたのは、一体誰でしょう?
「どこぞの国のおえらいさん」だけではありません。
「自分は一市民だから関係ない」そんなふうに思ってしまう視点──世の中の悲劇を「他人事」として捉えてしまう「視点」──そうした「無関心」こそが、今、こうした問題を引き起こしているのだと、私にはそう思えます。
この世に生きている以上、誰もが幸福になる権利があります。
でも、それと同時に、「誰かが理不尽な差別を強要され、幸福を享受出来ないのだとしたら、その責任は自分にもあるのだ」と──私は、いつもそう思っています。
社会を壊したのは、地球を痛めつけたのは──誰でもない。
「私達なのだ」と──。
だからこそ、私達は今「自分達がした行為」として、様々な問題と対峙する結果となっているのでしょう。
ナシム・ハラメインはこう結んでいます。
「私たちは、気づかなければなりません。『これは、望んでいた世界ではない』と。そして、自然との調和のため行動を起こすのです。互いに支え合えば、事態はすぐに快方へ向かうことでしょう」と。
サティシュ・クマールも、このように言っていました。
「経済よりも環境を優先すべきです。それができなければ、最低でも環境と経済は、同等に扱うべきです。
経済だけではバランスが取れません。社会のバランスが崩れているのは、環境を理解していないからです。
私たちが作り上げた経済システムは、混乱や地球温暖化、世界規模の飢餓や貧困を引き起こし、人々の心を疲弊させ、人間の幸福を奪いました。これが経済と環境を切り離してきた結果なのです。」
こうした生活が、結果的に「人間への心理的負担」に繋がっています。
便利さ、合理性は、私達に何を与えてくれたのでしょうか?
「所有で幸せは得られない。欲望のままに消費する生活からは、不幸しか生まれません。
現実に目を向ければ、すぐに分かります。ここ2~300年で築き上げた生活様式は、好ましい結果をもたらさなかったと。
世界を再設計するためには、意識改革が必要なのです。
私達が想像力や精神性を重んじることの重要性に気づけば、世界を変えることは可能です。(中略)必要性と調和を基に、世界を再設計するべきです」
私達はとても重大な時代に生まれ、重大な歴史を見、重大な決断を迫られている──。
そう感じた方は、決して少なくないはずです。
DVD「地球巡礼者」絶賛発売中。(すでにお持ちの方は、これからの解説も踏まえて視聴して頂けましたら幸甚です。何度みても必要なメッセージが、この中に含まれている──私はそう感じました。)
エハン・デラヴィ最期のトークイベントも受付中です。
17年間の研究成果すべてを聞けるラストチャンスです。
Posted by エハン at
16:06
2010年03月11日
エハン・デラヴィからのメッセージ
こんにちは。YOU are EARTHの篠崎です。
本日「3月10日」は、ネット配信番組「2012ルネッサンス」の更新日です。
その為、今回「地球巡礼者─アースピルグリム─」の連載はお休みさせて頂き、「2012ルネッサンス」に関する解説などをお伝えいたします。
まずは、エハンさんからのメッセージをお聞きください
エハンさんがブログの連載を辞められたことで、ショックを受けた方が大勢いたことと思います。
私も、そのうちのひとりでした。ですので、エハンさんに電話をし「何故、ブログを辞めたのか」その理由を尋ねました。
その答えは、この動画の中にあった「通り」です。
私たちには、確かにもう「時間がない」のでしょう。
最近私がよく感じるのは時間は絶対的ではなく、相対的だということです。2012年の動きを何となくでも感知している人は、その時間の流れが「異様に速くなっている」ことに気づいているでしょう。しかし、そんなことを露程も実感していない方であれば、「いつもと変わらない日常」でしかない──。
私は、それもまた「個人の自由」だと考えています。私たちが2012年や時代の変化を信じない人達に「信じろ」と強要するのは間違っているし、また同時に、信じてない人達が「そんなものを信じるのをやめろ」というのも間違えている。
こうした動きはすでに、「独立個人」として、「自らの行為と言動に責任を持つ時代が到来している証拠」なのではないかと、私はそのように考えています。
このようにエハンさんが研究されてきた集大成とも言える動画ですが、私は確かに「それほどの内容が詰っている」そう感じました(ただ、思考や考察が苦手な方には、難しく感じられるかもしれません。また、木を見て森を見られない場合の方も難しいかもしれませんが、ある意味「日本人が今後、国際的に生き残っていく為には、絶対に必要な意識改革のひとつ」なのではないだろうか──私は、そのように考えています。
vol1は無料配信となっています。が、個人的には「vol2」以降の方がお薦めです。内容のレベルや深度はvol2以降の方が素晴らしいと感じました。「難しい!」と感じる方もいるかもしれませんが、そういう方は是非、質問するなり調査するなり、理解を深めることをお薦め致します。「今」こそ、必要な情報だと──私はそう思うので。
今回更新されたVOL5のタイトル、および概要を、簡単に解説します。
◆3月10日配信紹介(vol5)◆
「最先端の電気的宇宙論と、古代人達が私たちに残したサイン」(前編)
宇宙だけじゃない、人間、脳、すべてに電気が影響している。
宇宙電気論提唱者が危惧した地球。
地球大激変。宇宙電気論に関する解説。
宇宙は真空ではない、その決定的証拠。
NASAが隠蔽した宇宙電気論。
これまでの宇宙科学論を覆す宇宙電気論。
何故宇宙電気論は、受け入れられにくいのか。
◆最先端の電気的宇宙論と、古代人が私たちに残したサイン」(後編)
◆意識の定義について(一部のみ要約)◆
意識とは「経験」であり、唯物的感覚とは違う。自分が意識しているレベルによって、感じる世界はまったく違う。
想像、妄想が「マイナスに働くこと」はとても多い。しかし、仮に「状況が違う」だけで、同じ現象でも「それを恐怖と捉えるか、よ、喜びと捉えるか」が変わる。しかし、通常の大学では「脳の働き」としか示さない。すなわち「電気的情報」と「ケミカル的な情報」がスパークすることで、私たちが五感で「脳によって作り上げられている」。
でも、脳の中に色はなければ、触覚もない。
意識は三次元に「拘束されていない」──空の世界に意識は充満している。
※感想※これを見ていて、私は去年体験した「非常に面白い実験」を思い出しました。
それは「宇宙気功」というもので、神経集中もしなければ座禅もしない、ただぼんやり立っているだけです。
にも関わらず、気功師の先生が「すっ」と腕を動かすだけで、私の体が勝手に動き出しました。最初は「気のせいだろう」そう思っていたのですが、しばらくしてから先生が「腕を動かさなくなった」にも関わらず、体が動き始めたのです。
先生は、私の前にリンゴを差し出しました。
「この味を、答えてみて」
私は即座に「甘酸っぱい」と答えました。(すみません。スーパーの安いリンゴしか買ったことがないので──)
ところが、今度は先生は「そうね。『甘酸っぱい』ね。じゃぁ、無意識で答えてごらん。五感のすべてをシャットアウトするんだ」。
すると、どうしたことでしょう。
味が、「まったく分からなかった」のです。
甘酸っぱい味も、思い出せない。からかったのか、甘かったのか、苦いのかも分かりません。
私は黙って、かぶりを振りました。
「分かりません。・・・・・・どんな味か、まったく想像出来ないのです」
その答えに、先生は笑って頷きました。
「その通り。無意識は、リンゴの味を知らない。リンゴの味を知っているのは、あなたの意識でしかないんだよ」と。
こんな単純な例でもわかるように、私たちは如何に意識に支配されているのか──よく分かりますね。
みなさんが誰かに怒りを感じた場合、それは「相手に原因があるのか」それとも、「本当は、自分が勝手に意識的に作り出した相手の像に向かって怒ってるだけなのか」考える価値はありそうですね(笑)。短気な私(苦笑)も、決して他人事ではありません。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
【番組制作者さんからのメッセージ】
このネット配信の中で、エハンさんが17年間求め続けてきたものが凝縮されているのでしょう。良心的にも(笑)、1ヶ月更新が出来ます。まずはお試しで見てみることを、お薦めします。
また、今月末(3月31日)迄に「1年分視聴 10,000円(税込)[2,600円割引]」を申込みされますと、24回放送分(一回放送時間約30分X24回 = 720分 )という約12時間分の膨大かつ貴重な情報を手にすることが出来ます。
また、申し込まれた方、全員にエハン・デラヴィからの特別メッセージDVD(非売品)を直筆サイン入りでプレゼントさせて頂きます。(プレゼントの発送は4月中旬になります。)
お申込は↓からお入りください。
http://www.echan.jp/movie/index.php
エハン・デラヴィ最期のトークイベントも受付中です。
17年間の研究成果すべてを聞けるラストチャンスです。
本日「3月10日」は、ネット配信番組「2012ルネッサンス」の更新日です。
その為、今回「地球巡礼者─アースピルグリム─」の連載はお休みさせて頂き、「2012ルネッサンス」に関する解説などをお伝えいたします。
まずは、エハンさんからのメッセージをお聞きください
エハンさんがブログの連載を辞められたことで、ショックを受けた方が大勢いたことと思います。
私も、そのうちのひとりでした。ですので、エハンさんに電話をし「何故、ブログを辞めたのか」その理由を尋ねました。
その答えは、この動画の中にあった「通り」です。
私たちには、確かにもう「時間がない」のでしょう。
最近私がよく感じるのは時間は絶対的ではなく、相対的だということです。2012年の動きを何となくでも感知している人は、その時間の流れが「異様に速くなっている」ことに気づいているでしょう。しかし、そんなことを露程も実感していない方であれば、「いつもと変わらない日常」でしかない──。
私は、それもまた「個人の自由」だと考えています。私たちが2012年や時代の変化を信じない人達に「信じろ」と強要するのは間違っているし、また同時に、信じてない人達が「そんなものを信じるのをやめろ」というのも間違えている。
こうした動きはすでに、「独立個人」として、「自らの行為と言動に責任を持つ時代が到来している証拠」なのではないかと、私はそのように考えています。
このようにエハンさんが研究されてきた集大成とも言える動画ですが、私は確かに「それほどの内容が詰っている」そう感じました(ただ、思考や考察が苦手な方には、難しく感じられるかもしれません。また、木を見て森を見られない場合の方も難しいかもしれませんが、ある意味「日本人が今後、国際的に生き残っていく為には、絶対に必要な意識改革のひとつ」なのではないだろうか──私は、そのように考えています。
vol1は無料配信となっています。が、個人的には「vol2」以降の方がお薦めです。内容のレベルや深度はvol2以降の方が素晴らしいと感じました。「難しい!」と感じる方もいるかもしれませんが、そういう方は是非、質問するなり調査するなり、理解を深めることをお薦め致します。「今」こそ、必要な情報だと──私はそう思うので。
今回更新されたVOL5のタイトル、および概要を、簡単に解説します。
◆3月10日配信紹介(vol5)◆
「最先端の電気的宇宙論と、古代人達が私たちに残したサイン」(前編)
宇宙だけじゃない、人間、脳、すべてに電気が影響している。
宇宙電気論提唱者が危惧した地球。
地球大激変。宇宙電気論に関する解説。
宇宙は真空ではない、その決定的証拠。
NASAが隠蔽した宇宙電気論。
これまでの宇宙科学論を覆す宇宙電気論。
何故宇宙電気論は、受け入れられにくいのか。
◆最先端の電気的宇宙論と、古代人が私たちに残したサイン」(後編)
◆意識の定義について(一部のみ要約)◆
意識とは「経験」であり、唯物的感覚とは違う。自分が意識しているレベルによって、感じる世界はまったく違う。
想像、妄想が「マイナスに働くこと」はとても多い。しかし、仮に「状況が違う」だけで、同じ現象でも「それを恐怖と捉えるか、よ、喜びと捉えるか」が変わる。しかし、通常の大学では「脳の働き」としか示さない。すなわち「電気的情報」と「ケミカル的な情報」がスパークすることで、私たちが五感で「脳によって作り上げられている」。
でも、脳の中に色はなければ、触覚もない。
意識は三次元に「拘束されていない」──空の世界に意識は充満している。
※感想※これを見ていて、私は去年体験した「非常に面白い実験」を思い出しました。
それは「宇宙気功」というもので、神経集中もしなければ座禅もしない、ただぼんやり立っているだけです。
にも関わらず、気功師の先生が「すっ」と腕を動かすだけで、私の体が勝手に動き出しました。最初は「気のせいだろう」そう思っていたのですが、しばらくしてから先生が「腕を動かさなくなった」にも関わらず、体が動き始めたのです。
先生は、私の前にリンゴを差し出しました。
「この味を、答えてみて」
私は即座に「甘酸っぱい」と答えました。(すみません。スーパーの安いリンゴしか買ったことがないので──)
ところが、今度は先生は「そうね。『甘酸っぱい』ね。じゃぁ、無意識で答えてごらん。五感のすべてをシャットアウトするんだ」。
すると、どうしたことでしょう。
味が、「まったく分からなかった」のです。
甘酸っぱい味も、思い出せない。からかったのか、甘かったのか、苦いのかも分かりません。
私は黙って、かぶりを振りました。
「分かりません。・・・・・・どんな味か、まったく想像出来ないのです」
その答えに、先生は笑って頷きました。
「その通り。無意識は、リンゴの味を知らない。リンゴの味を知っているのは、あなたの意識でしかないんだよ」と。
こんな単純な例でもわかるように、私たちは如何に意識に支配されているのか──よく分かりますね。
みなさんが誰かに怒りを感じた場合、それは「相手に原因があるのか」それとも、「本当は、自分が勝手に意識的に作り出した相手の像に向かって怒ってるだけなのか」考える価値はありそうですね(笑)。短気な私(苦笑)も、決して他人事ではありません。
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【番組制作者さんからのメッセージ】
このネット配信の中で、エハンさんが17年間求め続けてきたものが凝縮されているのでしょう。良心的にも(笑)、1ヶ月更新が出来ます。まずはお試しで見てみることを、お薦めします。
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また、申し込まれた方、全員にエハン・デラヴィからの特別メッセージDVD(非売品)を直筆サイン入りでプレゼントさせて頂きます。(プレゼントの発送は4月中旬になります。)
お申込は↓からお入りください。
http://www.echan.jp/movie/index.php
エハン・デラヴィ最期のトークイベントも受付中です。
17年間の研究成果すべてを聞けるラストチャンスです。
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16:13
│2012 Renaissance