2010年03月16日

地球巡礼者─アースピルグリム─(4)宇宙でさえもが、巡礼者

「私たちの宇宙観は間違っているかもしれない。真実の宇宙の本質を把握した方がより良い」
カール・セーガン


 (3)の章では「世界が直面している経済問題」などがテーマでしたが、今回はさらに視点が広がります。
 DVD「アースピルグリム」の構成は、まず「個人レベル」での存在意義──それが「巡礼である」とされているわけですが──から始まり、次の章で今まで私たちの精神的土台とされてきた宗教の在り方に疑義を投げかけ、そして「世界の現実問題」を直視し、「私たちを取り巻く環境、宇宙そのものを、本当に自分達は正しく理解出来ているのだろうか」という問題提議へと至ります。

 物理学者のナシーム・ハラメインは、こう語っています。
「私は、人類が非常に重要な分岐点に達していると考えています。『事象の地平線を越える』と呼んでいます。
 まだ選択の余地がある重要な時期なのです。競争や戦争を中心とした生活を継続して、自滅の道を歩むのか、それとも、大切な教訓を学ぶのか私たちの意思次第です」


 競争や戦争を中心とした生活。
 これはそもそも、どこから来たのでしょうか?
 弱肉強食とされる競争主義は、ダーウィンの進化論との結びつきが高いとよく言われています。
 しかし、本来「生命の進化の在り方は、まったく違う」と唱えた学者もいたのです。
 それが、ジャン・バティスト・ラマルク(1809~1882)です。
 エハン・デラヴィの著書「人類が変容する日」に、ジャンが提唱した「進化論」が記されています。

 ──以下転載──

 彼が提唱したのは、お互い協力し合う者は、長く生き残るということでした。
 言い換えれば、環境の変化に対応していく、委ねていく生命体が繁栄するということなのです。ラマルクの言っていることは、ダーウィンとはぜんぜん違うわけです。
 そして、その危機を体験することによって、生命体はどんどん進化していくということ。彼は、進化について言えば、危機は良いことだと思ったんですね。危機は悪いことではなく、それがあってこそ、進化のスピードが速くなるということです。(中略)
 そして、何が一番大切かというと、その生命体をとりまく環境だと言ったのです。(P35から引用)

 ──転載以上──


 ここで言われる「危機」──。
 これは、今まさしく私たち人類が置かれている現状ではないでしょうか?

「新たな面から宇宙を理解すれば、万物のつながりを実感できるでしょう。人類と宇宙との関係を理解できるのです。まだ手遅れではありません。私たちは、まだ分岐点にいるのですから

 分岐点。
 それを実感している人達は、おそらく今この記事を読んで下さっている方々以上に「大勢いるのではないか」──そう感じます。
 精神世界のことを何も知らない人達も、感じているはずです。それは、新聞の社会記事から──ニュースの報道から、そして、連続する地震、異常気象からも感じ取っているはずです。

 私たちの生命体をとりまく環境が、「まさに危機的状況」にあり、
 そして、私たちは誰ひとり例外なく「今、岐路に立たされているのだ」と。

 ナシーム・ハラメインは続けます。
「私が思うに実際、私たち人類は、混乱が増している非常に張りつめた状況にいます。ますます多くの情報やエネルギーが、社会に注がれているからです。すべてが吹き飛びそうな方向へ私たちは進んでいるのです。それほど危機的な状況です。私たちが人とつながり続け、協力して次のレベルに進むことができるとしたら、再びすべてが調和した世界を手に入れることが出来るでしょう

 調和した世界──。
 今の現実を振り返った際、それが一体どこに存在しているというのでしょう。
 私たちは便利になった生活と引き替えに、大切なものを失ってしまった。
 それが、自然と一体化した生活──「宇宙とのつながり」です。
 でも、それはただ瞑想して、社会を断絶して、ただひとり苦行者となれば取り戻せるようなものではなく、「人と人が、生命や、自然とつながりあう共存共栄を目指してこそ、再びとりもどせる絆」なのだと、私はそう思います。
 そうでなければ、何故、創造主はこの世界に「これほど多くの人々と、生命を育んだ」のでしょう?
 たったひとりの修行だけですべてケリがつくのであれば──地球にこれほど多くの命も、人種も、動物達も「必要なかったはず」です。
 私たちは「自分達が何故、この地球に存在するのか」を思い出し、そして、ラマルクが言うように「協力しあってこそ、進化の道」を辿れるのであるとしたら──まずは、「私たちの存在意義を思い出すのと同時に、私達を取り巻く環境に対する本当の理解をすること」が大切になってくるのかもしれません。
 
 だからこそ、この章で「宇宙に対する理解への疑義」が、提示されるのでしょう。
 人智学者・ルドルフ・シュタイナーも、「人々が目にしている宇宙は、本質の宇宙ではない。喩えていえば、宇宙の肉体を見ているようなものでしかない」という表現をしていました。
 それは、ひとりの人間を理解しようとした時、その人がどんな生き方をしてきて、何を思い、どんな価値観の中にあったかといった「存在意義」をいっさい問わず、「肌の色が黄色い」「目が黒い」「髪は黒い」「鼻はひとつで口もひとつだ」と、そんな表層的な部分しか問い沙汰してないのと同じことなのではないでしょうか?

 もしも私たちが、「宇宙の在り方」「生命の在り方」すべてを誤解していたとしたら──ただの「表層的なうわべ」だけで論じているのだとしたら、「環境問題」「世界の問題」を論じるその姿勢さえも間違えていないだろうか──そう、この映画では問いかけています。

 ナシーム・ハラメインは「太陽を中心に惑星が廻っている」という考え方自体が、「馬鹿げている」と指摘します。
 「太陽系そのものが、移動しているのだ」と。
 そして、他の惑星も共に移動していると。
 太陽系そのものが、宇宙を巡礼している──これは非常に驚くべき、そして、とても斬新な視点です。
 
 私たちが「巡礼者」だということに気づけば、次のステージに進んでいける──。
 
 グラハム・ハンコックは「時代が終焉を迎えているのかもしれない」、そう告げています。
「私たちの世代には、すべての生物が時代の終わりを迎えているのかもしれません。今までの終末論や予言のように、大きな変動がすぐ目の前に迫っているのです。何も考えず、何の準備もせずに、その時を迎えるのは、とても恐ろしいことです。私たちはこれから起こることに、無関心すぎるのです」

 古い殻にしがみつけばしがみつく程、我々は変化を否定していることになる──。
 それは、滅びかかった「資本主義」というシステムにしがみつき、利益主義に走り、いまだ「独占」「支配」という考えから離れず、あえぎ苦しむ人類を指し示しているようにも思えます。

 私たちが「巡礼者」であるということに気づくということは──同時に、「私たちは何も持っていないのだ」という気づきへと導きます。
 
 ピース・ピルグリムは、こう語っています。

私は何も所有していません。それが巡礼者の在り方です」

 これは、私たちにもそのまま言えることではないでしょうか?
 私たちは生まれてくる時、何も持って生まれてこなかった。
 そして死ぬ時も、何も持って行けないのです。
 そうした「人間の根本的な存在意義」こそが、すでに巡礼者の在り方であるというのに、私たちは生きている最中あれやこれやと所有したがり、執着し、支配し、独占したがる。
 もうその時点で、私たちは「道を誤っている」のかもしれません。

 宇宙も巡礼者であるとしたならば、フラクタル理論で考えたって同じように人類も「そう」であるとしか言いようがないのかもしれない。
 そしてそれは、誰もが「本来気づいていながら、『気づいてないフリをしている』だけ」なのかもしれません。

 私たちは「何も所有していない」。
 「何ひとつ、私たちのものではない」。
 肉体でさえ、「借り物でしかない」。

 そう気づいていながらも、「気づいてないフリ」をして、その不安をかき消すように物に執着し、人に依存し、お金を求め、ただ現世利益的な願望のみを求める──。
 そうすればする程、苦悩が増すことに気づいていながら──それでもまだ、「気づかないフリ」をしている……。

 もう私たちは、「本当の生命の意味(私たち人類の存在する意味)」に目覚めなければならない時に、来ているのかもしれません。


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地球巡礼者─アースピルグリム─(4)宇宙でさえもが、巡礼者 
   
【参考文献】


文責:YOU are EARTH 篠崎由羅



Posted by エハン at 13:03