2008年03月09日

マージング・ポイント



浮き上がる男のエネルギーを降ろして、グラウディングするためには、正反対のキャラクターが必要だ。それは女性にしかできないことだ。僕を救うために彼女が現れたのだと思う。ここがシンクロニシティとでもいうべき重大なポイントだ。

男女関係の意味は、互いに救い合うということなんだ。自分とはまったく正反対の者同士が、互いにバランスを取れるようにパートナーとなる。だから、決して楽なことじゃない。魅力を感じながら抵抗もある。この矛盾は、男女間のきわめて典型的な関係性だ。これにハマったら、えらいこっちゃね。自分が変わらなければいけないということだからだ。皆さんも思い当たるフシあるでしょう?

出会ってから4ヶ月後の1975年夏、僕は早苗 (ソニア) と一緒に京都で暮らし始めた。それまでに訪れたどの国よりも、どの都市よりも、京都に惹かれていたのだった。以後15年間、一度しか日本を離れたことはなかった。弓道、書道、禅、東洋医学に没頭し、親になり、鍼灸師になった。それほど惚れ込んでいたのだ。それは1989年に日本を棄てるまで・・・  


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2008年03月01日

On the road again



旅ばかりしている男を、誰が止めるのか。ヒッピーの中には、永遠に旅し続ける者もいる。
40代、50代でもオン・ザ・ロードの男たちだ。彼らは、いい意味で病気だね。大したものだし、
素晴らしいと思う。

しかし、彼らには最大の弱点がある。それは、自己中心的な生き方に陥りやすいということだ。
彼らが気にしているのは、自分のことだけだからだ。だから、人生の3Kのうち、関係性の問題で
行き詰ってしまう。下手すると、きわめて自己中心的な人間になってしまうのだ。そういう人を、
僕は何人も見てきた。

で、僕の場合はどうだったか? 旅の目的も人生も一気にチェンジさせたのは、素敵な日本の
女性だった。出会った場所は、バンクーバーのアメリカ大使館。ビザ申請の列に並んでいたその
女性を見た途端、目が吸い寄せられるように惹かれた。話しかけてみると、大阪出身だという。

バークリー大学に入るためにビザが必要で待っているというのだ。当時、アメリカ政府は、東洋人
の女性が入国することを警戒していた。不法滞在者になるのではないかと恐れていたのだ。

僕は、「じゃあサンフランシスコまで一緒に旅しませんか?」
と持ちかけた。彼女自身、10代から外国旅行をしてきた経験もあったし、物怖じしない性格
だった。知的好奇心も高くて、その方向も僕と一致していた。単なるロマンスじゃないと直観した。
一緒にクリシュナムルティの講演にも行ったね。そのときのことは、よく覚
えている。当時、彼は75歳だったけれど、とてもきちんとした格好をして、イギリスの紳士のよう
に舞台に立っていた。彼は、生涯にわたって、自ら以外には権威を求めないことが、真実の探求
の始まりだと言い続けた人だ。



講演の最後、「進歩と暴力の関係について知りたい」という質問に答えた彼の言葉が忘れられ
ない。彼は言った。「progress(進歩)の語源は、たくさんの武器を持って敵の基地を攻撃すると
いう意味なんですよ」それだけ告げて、彼は舞台の袖に消えた。あの人は、本物の先生だったなあ
と思う。

結局、僕とこの素敵な女性は、サンフランシスコまでのはずが、さらにメキシコまで一緒に行くこと
になった。バークリーに入学するのは、いくつもの困難があったのだ。

メキシコに入ると、僕は荷物の多い女性と二人で旅することにストレスを感じ始めていた。
彼女もメキシコの雰囲気が気に入らないと言い出した。

「じゃ、別れましょう。僕は独りで行く」
「私はバークリーに再挑戦する」

これで元の形に戻った。僕は南米。彼女はサンフランシスコの友だちのアパート。まったく逆方向
に別れたかに見えた。正直な話、彼女と別れてかなりホッとしていた。

だけど、やはり女性のパワーというものは侮れない。僕の頭の中に、〝そろそろこんなこと続けな
くてもいいんじゃない? 女性と暮らすほうがいいんじゃない?〟という声が聞こえてきた。

旅の魅力が薄れてきていた。で、Uターンでしょ、こうなったら。

サンフランシスコのアパートで、僕の悪口を言ってたところに、「ただいま」と言って帰ってきた。
それから33年間、僕は妻ソニアと一緒に生活することになる。

もし、彼女に出会わなかったら・・・・おそらくずっとオン・ザ・ロードの生き方をしていたかもしれ
ないね。  


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2008年02月11日

禅文化との出会い



小堀南嶺老師

一番惹かれたのは、やはり京都だった。大阪は商人の町で肌に合わなかった。
大徳寺には、英語の上手な老師がいた。小堀南嶺老師。この人は英語で禅の講演をしていたの
だけれど、一目で素晴らしい人物だとわかった。


それで、定期的に座禅会に参禅するようになった。
回りには禅に興味をもって勉強しに来ている外国人がたくさんいた。アメリカ人が多かったけれど、
だいたい2種類に分けられた。一つは公案を好むタイプ。これは非常に知的なユダヤ人の友だち
に多いタイプだった。要するに頭を使いたがるわけだね。もう一つは、曹洞宗を選ぶタイプ。
これは、頭を使わない「只管唯坐」に憧れる。さすがに臨済宗と曹洞宗。よく出来ていると思った。



道元禅師

僕はどちらにも属さなかった。グループ活動はあまり好まないのだね。だから、自分の家で
座禅した。毎朝5時に起きて2時間。隣の部屋にいたアメリカ人の友だちと一緒に40分の座禅と
10分の経行(きんひん)を繰り返すのだ。経行とは、きわめてゆっくりと、まるで止まっているかの
ように静かに歩くことだ。これは正式な参禅のやり方と変わらない。そうやって精神世界の修行し
ながら、昼は英会話の仕事に行っていたのだった。

日本の芸術や文化にどっぷり浸かっていたのは、僕だけではなかった。
例えば友だちの中には、能面を彫る天才的なアイルランド人がいた。彼の生活ぶりはハンパじゃなかった。京都北部の花背という村で能面の先生について、毎日何時間も徹底的に能面彫りを習っていた。茅葺の家に住みこんで、日本人にも負けないほどの腕前だった。いわゆるガイジンの東洋趣味じゃないんだ。本気で日本の伝統文化を学ぼうという志がなければ、とても無理なことだった。

毎朝5時間座禅するニューヨーク出身のボクサーもいた。彼はニューヨークに戻ったときに、本物の豆腐づくりをやった。日本デザインと仏教を研究していた友だちは、その後チベットのラマ層になった。おそらく最も有名な外国のラマですよ。修道院で7年間修行したテキサスのお坊さんもいた。墨絵に没頭している人もいたし、英語と日本語の両方で俳句を作るユダヤ人の友だちもいた。彼の漢字能力はケタ外れだったね。

充実したカルチャーライフだった。でも、日本で再びの禅ライフを継続する前に、「旅病」が疼きだした。〝うーん、京都もいいけど、ここにじっとしていられない。メキシコ、中南米、ボリビアが俺を呼んでるー〟って感じがしてきた。

こうなると、僕はもう駄目だった。旅人は動いてないとストレスがたまる。1975年3月、バンクーバー経由で、サンフランシスコ、メキシコ、ボリビアへの旅に出た。再び世界放浪の旅に出たのだ。日本での長い修行をするために先ず6ヶ月間の旅が要求されたのだ。帰ってきた後で十数年間日本から一歩もでなかった!  


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2008年01月21日

大徳寺と空腹時


大徳寺に辿り着くと、日本料理の店があった。精進料理の店だね。裏口に回ると、コックさんが
要らない野菜とか玄米を捨ててるのが見えた。僕は菜食主義者だから、野菜には目がない。
これはチャンスだ。ボディランゲージしかない。腹減ってるんだーと伝えた。コックさんはめちゃめ
ちゃ驚いていたね。腹減っている白人なんか、ありえないということでしょ。パニックになって、慌て
て店の中に入ってしまった。

「しまった・・驚かせてしまった」

失敗した、それにしても腹減った・・と思ったら、5分後、そのコックさんが弁当10個持って
出てきたのだ。

「これ、よかったら、どうぞ食べてください」

涙が出るほど感激したね。もう、この国はなんて国なの・・この親切、この優しさ。今までの旅には
なかった大感激だった。

それから一ヶ月、食べ物のことでは苦労した。大阪のイングリッシュハウスで英会話の仕事を見つけたから、
多少金はあったけれど、菜食主義を徹底してたから、食べられるのは百円の立ち食いそばか安い
お好み焼きだった。それもベーコンやエビ抜きの100パーセントキャベツだけのやつだった。

当時、喫茶店のコーヒーが二百五十円くらいだったと思う。わずかな金をポケットに入れて、日本
で初めて喫茶店にも入った。コーヒーを注文したら、なぜか卵焼きとトーストも一緒に出てきた。
僕は慌てて言った。

「お金ない。これいらないです。注文してない」

「いや、大丈夫です。モーニングですから」 

(本来のmorning service は、教会の日曜礼拝の事)

モーニング? 何それ? 聞いたことも見たこともない世界初の制度ですよ。これはありえない・・
僕は超とまどったが、店員さんがOKというから食べましたよ、モーニングサービス。ホント、宇宙的
に見て、不思議なシステムですよ、これは。

でも、お遍路的に考えてみれば、旅と修行でガリガリに痩せた白人青年が、日本という国に「お接待」されたということだと思う。お遍路さんも、お茶や果物を振舞われて助けられるでしょ。

このお接待という習慣と、僕が初めての日本で体験したことは、どこか深いところでつながっている
ような気がするのだ。


  


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2008年01月12日

京都への遍路



独り、時間が止まったような田舎を歩きながら、僕は日本に来た32年前のことを思い出していた。
20歳のころ、独りでアフリカ縦断ヒッチハイクを終えたあと、次に行く先は日本だと決めていた。1974年9月、僕は友だちと二人、片道航空券を手に羽田空港に降り立った。まだ成田空港は出来ていなかった。もちろん、ヒッピースタイルだ。憧れの日本に行くなら、黄色いダンガリーズ(ワークパンツ)に、中はふんどしを穿いていた。所持金は1万円ぽっきり。日本語もほとんどできないけれど、行けばなんとかなるというのが僕の信条だったから、心配はしなかった。

ところが、税関が立ちはだかった。片道航空券しかない者は入国できないと、完璧にシャットアウトしてきたのだ。なんで?と思ったが、税関の係官は頑として応じない。英語と日本語、話は通じないし、押し問答の末、ついに係官はついに航空会社の人間を呼びつけた。僕たちの存在を航空会社に押し付けたんだね。どうにかせい、こっちの責任じゃないと。航空会社の担当者も困りきった様子だった。
友だちは、おろおろしはじめた。3年半インドで瞑想ばっかりやっていて、いざというとき何の役にも立たない男だった。まったくしょうがない、でも何とかしないといけない。こういうとき、想像力が豊かになる。旅の経験がなければ、諦めちゃうでしょ、普通は。

パッと閃いた。要するに、話は単純だ。この税関さんは切符が見たいのだ。僕は航空会社の責任者に言った。

「今ここで切符作ってくださいよ。税関を通ったらすぐに返すから、損しないでしょ」
二人とも、すぐに理解した。即席のホノルル行きの切符で2ヶ月のビザを発給してくれた。
で、空港の外に出て驚いた。日本人のファッションセンスの高いこと。これはまったく予想外だった。僕たちは、いわゆる日本人らしい東洋的な服装で生活しているとばかり思い込んでいた。それなのに、男たちはスーツ着てる! 僕たちの格好のほうがズレていた。しかし、東京は目的地じゃない。すなわち、京都こそ最終目的地だった。当時のヒッピートラベラーの間では、カトマンズの次に来るポイントは京都だというのがもっぱらの噂だった。

京都に行けば、禅寺もある。東洋の伝統文化もある。いってみれば、京都は聖地だったんだね。一刻も早く東京を離れて、京都に向かうことにした。それが日本で最初のヒッチハイクだった。
でも最高に弱った。日本じゃヒッチハイクなんて誰もしないから、みんなすごい親切で食事もおごってくれるんだね。こっちは所持金百円ですよ。だけど、誰も疑わないで京都まで連れて行ってくれた。
 
京都最初の夜は、東本願寺の門前だった。日中の残暑の名残で暖かかった。ぐっすり寝た翌朝、僕たちが寝ているそばを、誰一人気にすることもなく歩いているではないか。邪魔する人もいなければ、逮捕もされない。僕は心底驚いた。こんな寛容な国があるんか……。すっかり幸せな気持ちで、大徳寺まで歩いた。結構な距離だった。金もない、食べるものもない。空腹は限界に達していた。
  


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2007年12月30日

3Kの話



断っちゃいけないのだ。ありがたくいただく。素直に、ありがとうございますと僕は頭を下げた。
東京や大阪の人よ、信じられまっか? 現代に生きている、同じ日本人ですよ。

明と暗。温かい人情と厳しい現実。僕は、真夏の道を歩きながら、さらに暗いエネルギーの波動を
感じるようになっていた。それは、宿で顔を合わせたり、お寺で見かけるお遍路さんたちからも伝
わってきた。

それぞれの人生で、本当に厳しい体験をしてきている人が多い。それをはっきり感じるようになった。きっと悲しいことがあったのだろうな。何か具体的に聞かなくても、わかることだった。
暗いのは当たり前だった。そうでなければ、誰が好きこのんで、つらい歩き遍路なんかするか? 
みんな人生の3Kの壁にぶち当たっている。すなわち、済問題、康問題、そして親子夫婦などの係性の問題。この3Kにぶつからない人はいないのだ。

あとで詳しく話そうと思うけれど、僕の3Kは厄年にいっぺんにやってきた。もう身動き取れない状態だった。誰にとっても、この3Kは人生のテスト、試練なんだね。それも絶対にスルーできないテストだ。だからこそ、お遍路で修行しようということになる。一年がかりでお遍路すれば、それは一年がかりの意識変革になる。これは間違いないことだ。お遍路やった人ならわかるはずだ。



それにしても、本州とはまったく別の次元に来たようだった。四国は、まさに4つの国だった。歩きとおしてからわかったことだけれど、それぞれ雰囲気がまったく違う。

徳島県は、どこかルーズで陰気な感じがしたが、高知県に入ると、すっかり南国だった。日本ではなく、どこか東南アジアの国みたいな雰囲気を感じた。タイ人が歩いてても、おかしくないと思った。気候、風景、光の強さ。漢字の標識さえなければ、日本じゃないみたいだった。僕は、こんな身近に外国みたいな地方があったのかと、ハッピーな気分だった。

しかし、その反面、めちゃめちゃハードな修行の波動も立ち込めていた。暗く厳しい雰囲気、孤独感、男性性の極み。特に、23番薬王寺から24番室戸岬最御崎寺にかけてのルートは、全札所間の距離が2番目に長く、75キロを越える行程である。お遍路する人たちの間でも、特に厳しい難所として有名だ。

僕は、お遍路道自体から伝わってくる暗くて重い波動を感じていた。当然でしょう。今まで何千万人もの人が、何百年もの間、つらい事情と心を抱えて歩いた道だ。挫折、失望、離婚、病気、破産。乞食遍路とかハンセン病の人とか、お遍路でしか生きられない人もいたでしょう。それを思うと、さらに、濃くてヘビーでダークな場所に来ているという実感が湧いてきたのだった。辛かったね、皆さん。

ちなみに、高知を抜けると、一気に女性的で優しい国になる。文字通り、愛媛県は自然も豊かで暖かい国だ。最後の香川県は、あまり強い印象はない。フラットで平坦な土地が広がっている。この4つの国を比べて、日本の意識革命が高知で始まったのが、腑に落ちる気がした。密教の世界に聳え立つ空海。いかめしく孤高で、容易には人を寄せ付けない空海は、巨像となって、まさに高知県室戸岬に立っている。

しかし、この室戸岬はまだ遠い。残暑厳しい9月、僕は高知県に入ったばかりだった。ある男と遭遇するまでは、まだまだ元気だったのだ。


  


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2007年12月23日

「お遍路さんですか?」




「7回目といっても、まだまだ修行足りないですから。会社勤め以外の自分の時間は、お遍路する
ことにしてるんです」
 
僕は心底感動した。普通、1回やれば十分なのに、7回なんて。ハンパなことじゃない。もう本当の
修行だと思った。現代の修行者に会った気がした。どこまでやっても、究めたということがない。
伝統的日本人の姿だと思った。

「洗心」という言葉が浮かんだ。僕も歩いているから、彼のプロフェッショナルな魂がよくわかる。
巡礼のプロとはこういう人なのだ。日本はやはり美しい国だね。そういう思いが湧いてきていた。

しかし、一方で気になることがあった。とにかく若い人の姿が見えないし、人気がなさすぎる。誰が買
うのか、流行遅れの古い洋服が2000円で売られている。店には誰もいない。村全体に活気がない。
一番合理的な説明として考えられるのは、みんな家にこもってテレビを見ているということだった。

外出すれば金もかかるし、必要以上の買い物はしないのだろう。四国は経済的にかなり苦しいのだ。実際に、地元の人から聞かされたときはショックだった。

「あんた、地元じゃ毎月の生活費どのくらいやと思う? 17万円ですよ。それで子供を学校に行か
せて生活せんならん」

たった17万円。僕は言葉もなかった。活気などあるわけないんだ。古くて懐かしい日本の風景はゴーストタウンだったのだ。経済的に苦しければ、雰囲気は暗くなるのは当たり前だ。毎月一回、
4泊5日のお遍路をしながら、四国のダークな部分に気づきだしたのは、徳島県を抜け、高知県を
歩いていた秋から冬にかけてのことだった。

冬になれば、お遍路の姿も少なくなる。だからといって宿は閉じられない。一人の僕のために、営業
していてくれる。それでたった5000円だ。この大変さ、わかりますか。めちゃめちゃきついことですよ。

地元の人は、お遍路さんにそれほどのシンパシーを持っていないようにさえ感じた。僕の経験では、
8割以上の農家の人は、お遍路を無視している。むしろ、〝お遍路なんて、宗教くさいことようやるわ。なんや格好つけて……。こっちはそんな余裕ないわ〟という感じなのだ。これははっきり伝わってきた。特に働き盛りの世代は、そういう雰囲気を醸し出している。当然でしょうね。みんな生活するのに精一杯なのだ。

歩くほうも必死、生活してるほうも必死。非常に重苦しい波動を感じ始めていた。
ただ、爺ちゃん、婆ちゃんは違った。この人たちは、この土地でずっと農業やってきて、70年、
80年、苦労を重ねてきた人たちだ。お遍路のつらい事情もわかるのだね。道で出会うと、必ず頭を
下げて、「ご苦労様です」と言ってくれる。中には、「ちょっと待ってな」と、桃などの特産フルーツを
わざわざ持ってきてくれたりする。

あるときには、軽自動車が停まって、おばちゃんが降りて近づいてきた。

「お遍路さんですか?」

はいと答えると、おばちゃんは、どうぞと言って、アイスクリームをくれた。たぶんアイスクリームの
商売をやってる人だったんでしょう。でも、見知らぬ外人相手に、アイスクリームだよ? はあー、
日本人はすごいなあと思った。感激した。こういうところで、人を疑わないのだ。心から素晴らしいと
思う。もし、イギリスにお遍路があったとしても、頭も下げないし、ご苦労様なんて声をかけたりしないだろう。単に怪しまれるだけだ。僕が、日本に「人間に対する基本的な信頼が残っている」というのはこういうことなのだ。お遍路さんに対する「お接待」と呼ばれる行為なのだけれど、封筒に千円とか三千円とか入れて渡してくれる人もいるのだ。

「冷たいものでも飲んでね」
  


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2007年12月13日

草ぼうぼうの喫茶店




で、どうなったか。実際はほとんど雨降らずの一日だったのだ。これはどういうこと? 
お天気お姉さんが嘘を言ったのか?そうじゃない。祈りの言葉が台風を逸らしたのか? 
当たり前だけど、そういうことでもないね。

これは、直観に従うということだ。僕は、自分の直観に従って、雨も風も気にしないことを選択した。
自分にとって重要な23という番号を選択したということだ。だいたい日本のニュースは大げさすぎ
るね。それがマイナスの状況を引き寄せてしまうのだと思う。

だって、あの親子遍路さんが示してくれたことは、天気予報がかきたてる不安が、「旅を中止する」
というマイナスの状況を現実化させたということだからだ。「マラナサ」。これからバッドニュースが
たくさん溢れる次代に、どうぞ皆さんにもオススメします。

というわけで、田舎の道をずんずん歩く。めちゃくちゃ暑いけれど、徳島の道は気持ちがいい。
お寺にはお遍路さんたちが集まってくるけれど、歩き始めれば人気は極端に少なくなる。
古い民家、誰もいない喫茶店、草ぼうぼうのガソリンスタンド。

鳥の声、風の音、かすかに聞こえる飛行機の爆音。自動車もあまり通らない。
古びたメニューが掲げられたままの喫茶店、錆びついた「オロナミンC」の看板、時々路地裏から
出てくる爺ちゃん、婆ちゃんの姿。ほとんど「まんが日本昔ばなし」のテーマソングでも流れそうな
雰囲気である。30年前の日本にワープしたような感じだった。昔の日本がそのまま、そこにあっ
た。古くて平和な感情と懐かしさが湧いてきた。

「暑い!でも素晴らしいね、このお遍路は!30年前の日本にワープしたみたいだ」
北朝鮮の問題とかインターネットとかIT社会とか、ニュースを賑わすキーワードにまったく無関係
な様子で、お遍路道は穏やかな自然に包まれていた。



いいねえ、この道は。バブルにも高度成長にも四国は参加しなかったのか。汚染されていないん
だね。

感動した僕は、四国の田園風景を写真にとっては、パソコンでレポートしようとした。ところが、四国
はきわめて電波状況が悪いのだね。今の日本であり得ないほどだ。僕は大笑いしてしまった。
「電波通じへんのか。現代に取り残されとる。もう四国大好き!」

ただ、笑ってばかりもいられなかった。背負っているパソコンが無用の長物となったのだ。僕のパソ
コンはパナソニックの「タフブック」というヤツで、頑丈かつ最強の耐水性を誇っている。
その代わり、超重いのだ。

こいつのせいで、1日目から僕のリュックはクレージーな重さになっていた。
「パソコンはもう要らん。四国お遍路にはパソコンは不要なのだ」

僕は3日目にレポートをキッパリと諦め、宅急便で送り返した。持っていて意味がないものは、即減
らす。せっかく持ってきたのにとか、電波の通じるところなら使えるかもしれないなどという未練はない。

持ち物を減らすということには、どういう意味があるのか。まず身が軽くなるね。そして、フィジカ
ルにも精神的にも楽になる。それがわかっているのに、ほんの時々しか役に立たない代物を、なぜ
人は物を持ち続けようとするのか。これは第一の大きなレッスンだった。

毎日朝6時には宿を出た。だいたい僕が一番早かった。平均して25キロから30キロ歩く。順繰りに
お寺に着いては、納経帳に寺の名前を筆で書いてもらい、ご朱印をいただく。
驚いたのは、どこのお寺にも、毎日納経帳にサインをしているお坊さんがいるということだった。
じっと動かず、座ったまま、毎日同じことの繰り返し。たぶん、サインするのは一日百人以上だと思う。
もちろん一回300円だから主な収入源になる。とはいえ、誰でもできる仕事じゃない。この人た
ちは本当にすごい修行していると思う。

お遍路にも驚くべき人がいた。その人に出会ったのだが、「もう7回目のお遍路」だというのだ。
50代のサラリーマンだという。金曜日の夜に四国に来て、土日で毎日50キロ歩いているという。
きわめて几帳面で真面目な人だった。お遍路姿にはちまきを締めた男は、静かに言った。  


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2007年12月05日

The number 23



ともかく、僕は霊山寺でお遍路グッズを買っている人たちを尻目に、さっさとリュックを担いで歩き
出した。僕はお遍路の格好はしない。菅笠も白衣も着ない。金剛杖も持たない。持っているステッ
キは、富士山に登ったときから使い始めたもので、アンデスにも2回持っていった。決められた
スタイルというものには従わないのだ。


今日の予定は30キロ。スタートから出遅れた僕には時間がなかった。夕方までに宿に到着しな
ければいけない。お遍路は時間との戦いでもある。僕は独りで歩くことを原則にしていた。だって、
僕はハイキングしに来たわけじゃないし、誰かと競争しているわけでもない。自分のペースを保って
歩くことが大事なのだ。それに独りで歩くと、自分の心の汚れが、かなり明確に見えてくるからよい
のだね。

空からは真夏の日差しが降り注いでいた。超暑い。日に焼けて、すぐに顔が真っ赤になる。ほとん
ど赤鬼だ。それでバンダナを巻き、ひたすら歩く。歩くことに集中し、自分だけの祈りの言葉をひた
すら唱える。「maranatha」という言葉だ。今の聖書にはないけれど、古代から聖書の最後の言
葉として有名な祈りの言葉だ。

「キリスト意識がいまここにありますように」という意味だけれど、別にキリスト教の神に限ったわ
けじゃないんだ。マントラみたいなものだね。この祈りは短いからいい。何時間も唱えていると、
自分が捉われていた思い込みを捨てられる。例えばこんなことがあった。

23番札所に向かう前日、天気予報では台風情報がさかんに流されていた。「大変な暴風雨になる
見込みで、厳重な警戒が必要です」と、お天気お姉さんが真剣な表情で伝えてきた。でも、外を見
ても、僕にはそんなに危うい感じは持てなかった。

こういうとき、どうするか。民宿で一緒に泊まっていた親子のお遍路さんは、旅を中止することを選
択した。僕も少し迷ったけれど、こういうときこそ、「maranatha」だね。恐れとか不安とか、ネガテ
ィブな意識をクリーニングするのだ。

「よし、決めた。僕は行く」
 
23という数字は僕にとっては、特別な数字だ。『裸のランチ』を書いたウィリアム・バロウズも言って
いたけれど、23は神秘を引き起こすオカルトナンバーなのだ。これは、シリウスと関係が深い。
シリウスについて、また後で語るけれど、ともかく自分がつねに注目してきた番号なのだ。

  


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2007年11月25日

迷う意識




あらかじめ決められたコースと、そこから外れること。不注意でなくても、僕はそもそも、決められた
コースを、その通り歩くことが好きじゃないんだね。すぐにコースアウトしたくなる癖がある。
でも、お遍路は決められたルートを歩かざるを得ない。他の人も、なぜか違う道を行きたくなるらしい。

で、迷う。完璧に迷子になるね。そのとき初めて、外れたくなる自分に気づくわけだ。自分のやり
方を押し通し、人の言うことを聞かない頑固な自分に、まともに直面させられる。正しい道を行くの
が一番早い道なのにね。

でも、迷うのは僕だけじゃない。実は、大詰めにの88番に行くときのことだった。
ある30歳の男性と一緒に出発した。彼はかなりの健脚だった。まるで競歩のように歩く。さすが
若いね。平均時速6キロだというから、ついて行けない。こういうときは互いのペースを尊重する。
お遍路は競争じゃないからね。僕は、先に行ってもらうことにした。

僕が、午後になって88番寺に到着したとき、彼はとっくに着いているはずだった。ところが、
ついさっき到着したばかりだと言う。

「どうしたの? 何かあった?」
「3回も迷った。もう参ったですよ」
「どうしたの? どこで迷った?」
「女体山の下りで……」

彼はため息をついた。確かに女体山の道は草ぼうぼうで、ほとんど誰も歩かない道。標高
770メートルの山道には岩場もあって結構大変だ。下りる道はもっときつい。
「下っては間違いに気づき、登りなおしてまた迷い、結局3回迷ったです」

まあ、あそこなら迷っても仕方ない、女体山だもの。最後に女の身体に登るんや、30歳なら迷うの
は当たり前やね。人生これからということじゃ。

という自分も、お遍路道で何度も迷子になって、地図を上にしたり斜めにしたり、ホント苦労した。
何度もルートを見失った。あまりに何回も迷うと、自分の馬鹿さ加減に腹が立ってくる。思わず天に
向かって吼えたね。

「もういい加減にせんかー! このアホたれが! いつまで迷えば気が済むんじゃ!」
日焼けしたガイジンの奇行蛮行に、農作業している人もビックリしてたね。もっと驚いてたのは、
お遍路始めたばかりの「ピカピカのお遍路さん」グループだったけれど、構うもんかという気分だった。

すっかり頭に血が上っていた。僕は、新人お遍路さんたちに、〝これから大変なことになるよー。
楽しいのは今のうちじゃー〟と胸のなかで毒づいていた。

まあ、最後の頃になって、ようやく農家の人に道を尋ねられるようになった。
そして、そのたびに、〝訊いておいてよかったぁ。思い込みで歩き続けてたら、どないなってた
やろ〟と心から安堵したものだ。こうした気づきは、自分の身体で学ぶしかない。自分の癖を
発見していくということだ。

癖は良し悪しの問題ではない。自分の思考パターンの囚われだ。その癖が、現実を呼び寄せる。
僕の場合なら、メインロードから脇道に逸れたくなる。決まった道を行きたくないんだ。で、迷う。
道という言葉には、言霊があるでしょ。ホント、人生の問題が詰まってますよ、四国のお遍路は。  


Posted by エハン at 07:23Autobiography