2008年03月09日

マージング・ポイント



浮き上がる男のエネルギーを降ろして、グラウディングするためには、正反対のキャラクターが必要だ。それは女性にしかできないことだ。僕を救うために彼女が現れたのだと思う。ここがシンクロニシティとでもいうべき重大なポイントだ。

男女関係の意味は、互いに救い合うということなんだ。自分とはまったく正反対の者同士が、互いにバランスを取れるようにパートナーとなる。だから、決して楽なことじゃない。魅力を感じながら抵抗もある。この矛盾は、男女間のきわめて典型的な関係性だ。これにハマったら、えらいこっちゃね。自分が変わらなければいけないということだからだ。皆さんも思い当たるフシあるでしょう?

出会ってから4ヶ月後の1975年夏、僕は早苗 (ソニア) と一緒に京都で暮らし始めた。それまでに訪れたどの国よりも、どの都市よりも、京都に惹かれていたのだった。以後15年間、一度しか日本を離れたことはなかった。弓道、書道、禅、東洋医学に没頭し、親になり、鍼灸師になった。それほど惚れ込んでいたのだ。それは1989年に日本を棄てるまで・・・  

Posted by エハン at 10:34Autobiography

2008年03月01日

On the road again



旅ばかりしている男を、誰が止めるのか。ヒッピーの中には、永遠に旅し続ける者もいる。
40代、50代でもオン・ザ・ロードの男たちだ。彼らは、いい意味で病気だね。大したものだし、
素晴らしいと思う。

しかし、彼らには最大の弱点がある。それは、自己中心的な生き方に陥りやすいということだ。
彼らが気にしているのは、自分のことだけだからだ。だから、人生の3Kのうち、関係性の問題で
行き詰ってしまう。下手すると、きわめて自己中心的な人間になってしまうのだ。そういう人を、
僕は何人も見てきた。

で、僕の場合はどうだったか? 旅の目的も人生も一気にチェンジさせたのは、素敵な日本の
女性だった。出会った場所は、バンクーバーのアメリカ大使館。ビザ申請の列に並んでいたその
女性を見た途端、目が吸い寄せられるように惹かれた。話しかけてみると、大阪出身だという。

バークリー大学に入るためにビザが必要で待っているというのだ。当時、アメリカ政府は、東洋人
の女性が入国することを警戒していた。不法滞在者になるのではないかと恐れていたのだ。

僕は、「じゃあサンフランシスコまで一緒に旅しませんか?」
と持ちかけた。彼女自身、10代から外国旅行をしてきた経験もあったし、物怖じしない性格
だった。知的好奇心も高くて、その方向も僕と一致していた。単なるロマンスじゃないと直観した。
一緒にクリシュナムルティの講演にも行ったね。そのときのことは、よく覚
えている。当時、彼は75歳だったけれど、とてもきちんとした格好をして、イギリスの紳士のよう
に舞台に立っていた。彼は、生涯にわたって、自ら以外には権威を求めないことが、真実の探求
の始まりだと言い続けた人だ。



講演の最後、「進歩と暴力の関係について知りたい」という質問に答えた彼の言葉が忘れられ
ない。彼は言った。「progress(進歩)の語源は、たくさんの武器を持って敵の基地を攻撃すると
いう意味なんですよ」それだけ告げて、彼は舞台の袖に消えた。あの人は、本物の先生だったなあ
と思う。

結局、僕とこの素敵な女性は、サンフランシスコまでのはずが、さらにメキシコまで一緒に行くこと
になった。バークリーに入学するのは、いくつもの困難があったのだ。

メキシコに入ると、僕は荷物の多い女性と二人で旅することにストレスを感じ始めていた。
彼女もメキシコの雰囲気が気に入らないと言い出した。

「じゃ、別れましょう。僕は独りで行く」
「私はバークリーに再挑戦する」

これで元の形に戻った。僕は南米。彼女はサンフランシスコの友だちのアパート。まったく逆方向
に別れたかに見えた。正直な話、彼女と別れてかなりホッとしていた。

だけど、やはり女性のパワーというものは侮れない。僕の頭の中に、〝そろそろこんなこと続けな
くてもいいんじゃない? 女性と暮らすほうがいいんじゃない?〟という声が聞こえてきた。

旅の魅力が薄れてきていた。で、Uターンでしょ、こうなったら。

サンフランシスコのアパートで、僕の悪口を言ってたところに、「ただいま」と言って帰ってきた。
それから33年間、僕は妻ソニアと一緒に生活することになる。

もし、彼女に出会わなかったら・・・・おそらくずっとオン・ザ・ロードの生き方をしていたかもしれ
ないね。  

Posted by エハン at 11:22Autobiography

2008年02月11日

禅文化との出会い



小堀南嶺老師

一番惹かれたのは、やはり京都だった。大阪は商人の町で肌に合わなかった。
大徳寺には、英語の上手な老師がいた。小堀南嶺老師。この人は英語で禅の講演をしていたの
だけれど、一目で素晴らしい人物だとわかった。


それで、定期的に座禅会に参禅するようになった。
回りには禅に興味をもって勉強しに来ている外国人がたくさんいた。アメリカ人が多かったけれど、
だいたい2種類に分けられた。一つは公案を好むタイプ。これは非常に知的なユダヤ人の友だち
に多いタイプだった。要するに頭を使いたがるわけだね。もう一つは、曹洞宗を選ぶタイプ。
これは、頭を使わない「只管唯坐」に憧れる。さすがに臨済宗と曹洞宗。よく出来ていると思った。



道元禅師

僕はどちらにも属さなかった。グループ活動はあまり好まないのだね。だから、自分の家で
座禅した。毎朝5時に起きて2時間。隣の部屋にいたアメリカ人の友だちと一緒に40分の座禅と
10分の経行(きんひん)を繰り返すのだ。経行とは、きわめてゆっくりと、まるで止まっているかの
ように静かに歩くことだ。これは正式な参禅のやり方と変わらない。そうやって精神世界の修行し
ながら、昼は英会話の仕事に行っていたのだった。

日本の芸術や文化にどっぷり浸かっていたのは、僕だけではなかった。
例えば友だちの中には、能面を彫る天才的なアイルランド人がいた。彼の生活ぶりはハンパじゃなかった。京都北部の花背という村で能面の先生について、毎日何時間も徹底的に能面彫りを習っていた。茅葺の家に住みこんで、日本人にも負けないほどの腕前だった。いわゆるガイジンの東洋趣味じゃないんだ。本気で日本の伝統文化を学ぼうという志がなければ、とても無理なことだった。

毎朝5時間座禅するニューヨーク出身のボクサーもいた。彼はニューヨークに戻ったときに、本物の豆腐づくりをやった。日本デザインと仏教を研究していた友だちは、その後チベットのラマ層になった。おそらく最も有名な外国のラマですよ。修道院で7年間修行したテキサスのお坊さんもいた。墨絵に没頭している人もいたし、英語と日本語の両方で俳句を作るユダヤ人の友だちもいた。彼の漢字能力はケタ外れだったね。

充実したカルチャーライフだった。でも、日本で再びの禅ライフを継続する前に、「旅病」が疼きだした。〝うーん、京都もいいけど、ここにじっとしていられない。メキシコ、中南米、ボリビアが俺を呼んでるー〟って感じがしてきた。

こうなると、僕はもう駄目だった。旅人は動いてないとストレスがたまる。1975年3月、バンクーバー経由で、サンフランシスコ、メキシコ、ボリビアへの旅に出た。再び世界放浪の旅に出たのだ。日本での長い修行をするために先ず6ヶ月間の旅が要求されたのだ。帰ってきた後で十数年間日本から一歩もでなかった!  

Posted by エハン at 11:48Autobiography

2008年01月21日

大徳寺と空腹時


大徳寺に辿り着くと、日本料理の店があった。精進料理の店だね。裏口に回ると、コックさんが
要らない野菜とか玄米を捨ててるのが見えた。僕は菜食主義者だから、野菜には目がない。
これはチャンスだ。ボディランゲージしかない。腹減ってるんだーと伝えた。コックさんはめちゃめ
ちゃ驚いていたね。腹減っている白人なんか、ありえないということでしょ。パニックになって、慌て
て店の中に入ってしまった。

「しまった・・驚かせてしまった」

失敗した、それにしても腹減った・・と思ったら、5分後、そのコックさんが弁当10個持って
出てきたのだ。

「これ、よかったら、どうぞ食べてください」

涙が出るほど感激したね。もう、この国はなんて国なの・・この親切、この優しさ。今までの旅には
なかった大感激だった。

それから一ヶ月、食べ物のことでは苦労した。大阪のイングリッシュハウスで英会話の仕事を見つけたから、
多少金はあったけれど、菜食主義を徹底してたから、食べられるのは百円の立ち食いそばか安い
お好み焼きだった。それもベーコンやエビ抜きの100パーセントキャベツだけのやつだった。

当時、喫茶店のコーヒーが二百五十円くらいだったと思う。わずかな金をポケットに入れて、日本
で初めて喫茶店にも入った。コーヒーを注文したら、なぜか卵焼きとトーストも一緒に出てきた。
僕は慌てて言った。

「お金ない。これいらないです。注文してない」

「いや、大丈夫です。モーニングですから」 

(本来のmorning service は、教会の日曜礼拝の事)

モーニング? 何それ? 聞いたことも見たこともない世界初の制度ですよ。これはありえない・・
僕は超とまどったが、店員さんがOKというから食べましたよ、モーニングサービス。ホント、宇宙的
に見て、不思議なシステムですよ、これは。

でも、お遍路的に考えてみれば、旅と修行でガリガリに痩せた白人青年が、日本という国に「お接待」されたということだと思う。お遍路さんも、お茶や果物を振舞われて助けられるでしょ。

このお接待という習慣と、僕が初めての日本で体験したことは、どこか深いところでつながっている
ような気がするのだ。  

Posted by エハン at 10:40Autobiography

2008年01月12日

京都への遍路



独り、時間が止まったような田舎を歩きながら、僕は日本に来た32年前のことを思い出していた。
20歳のころ、独りでアフリカ縦断ヒッチハイクを終えたあと、次に行く先は日本だと決めていた。1974年9月、僕は友だちと二人、片道航空券を手に羽田空港に降り立った。まだ成田空港は出来ていなかった。もちろん、ヒッピースタイルだ。憧れの日本に行くなら、黄色いダンガリーズ(ワークパンツ)に、中はふんどしを穿いていた。所持金は1万円ぽっきり。日本語もほとんどできないけれど、行けばなんとかなるというのが僕の信条だったから、心配はしなかった。

ところが、税関が立ちはだかった。片道航空券しかない者は入国できないと、完璧にシャットアウトしてきたのだ。なんで?と思ったが、税関の係官は頑として応じない。英語と日本語、話は通じないし、押し問答の末、ついに係官はついに航空会社の人間を呼びつけた。僕たちの存在を航空会社に押し付けたんだね。どうにかせい、こっちの責任じゃないと。航空会社の担当者も困りきった様子だった。
友だちは、おろおろしはじめた。3年半インドで瞑想ばっかりやっていて、いざというとき何の役にも立たない男だった。まったくしょうがない、でも何とかしないといけない。こういうとき、想像力が豊かになる。旅の経験がなければ、諦めちゃうでしょ、普通は。

パッと閃いた。要するに、話は単純だ。この税関さんは切符が見たいのだ。僕は航空会社の責任者に言った。

「今ここで切符作ってくださいよ。税関を通ったらすぐに返すから、損しないでしょ」
二人とも、すぐに理解した。即席のホノルル行きの切符で2ヶ月のビザを発給してくれた。
で、空港の外に出て驚いた。日本人のファッションセンスの高いこと。これはまったく予想外だった。僕たちは、いわゆる日本人らしい東洋的な服装で生活しているとばかり思い込んでいた。それなのに、男たちはスーツ着てる! 僕たちの格好のほうがズレていた。しかし、東京は目的地じゃない。すなわち、京都こそ最終目的地だった。当時のヒッピートラベラーの間では、カトマンズの次に来るポイントは京都だというのがもっぱらの噂だった。

京都に行けば、禅寺もある。東洋の伝統文化もある。いってみれば、京都は聖地だったんだね。一刻も早く東京を離れて、京都に向かうことにした。それが日本で最初のヒッチハイクだった。
でも最高に弱った。日本じゃヒッチハイクなんて誰もしないから、みんなすごい親切で食事もおごってくれるんだね。こっちは所持金百円ですよ。だけど、誰も疑わないで京都まで連れて行ってくれた。
 
京都最初の夜は、東本願寺の門前だった。日中の残暑の名残で暖かかった。ぐっすり寝た翌朝、僕たちが寝ているそばを、誰一人気にすることもなく歩いているではないか。邪魔する人もいなければ、逮捕もされない。僕は心底驚いた。こんな寛容な国があるんか……。すっかり幸せな気持ちで、大徳寺まで歩いた。結構な距離だった。金もない、食べるものもない。空腹は限界に達していた。  

Posted by エハン at 07:23Autobiography

2007年12月30日

3Kの話



断っちゃいけないのだ。ありがたくいただく。素直に、ありがとうございますと僕は頭を下げた。
東京や大阪の人よ、信じられまっか? 現代に生きている、同じ日本人ですよ。

明と暗。温かい人情と厳しい現実。僕は、真夏の道を歩きながら、さらに暗いエネルギーの波動を
感じるようになっていた。それは、宿で顔を合わせたり、お寺で見かけるお遍路さんたちからも伝
わってきた。

それぞれの人生で、本当に厳しい体験をしてきている人が多い。それをはっきり感じるようになった。きっと悲しいことがあったのだろうな。何か具体的に聞かなくても、わかることだった。
暗いのは当たり前だった。そうでなければ、誰が好きこのんで、つらい歩き遍路なんかするか? 
みんな人生の3Kの壁にぶち当たっている。すなわち、済問題、康問題、そして親子夫婦などの係性の問題。この3Kにぶつからない人はいないのだ。

あとで詳しく話そうと思うけれど、僕の3Kは厄年にいっぺんにやってきた。もう身動き取れない状態だった。誰にとっても、この3Kは人生のテスト、試練なんだね。それも絶対にスルーできないテストだ。だからこそ、お遍路で修行しようということになる。一年がかりでお遍路すれば、それは一年がかりの意識変革になる。これは間違いないことだ。お遍路やった人ならわかるはずだ。



それにしても、本州とはまったく別の次元に来たようだった。四国は、まさに4つの国だった。歩きとおしてからわかったことだけれど、それぞれ雰囲気がまったく違う。

徳島県は、どこかルーズで陰気な感じがしたが、高知県に入ると、すっかり南国だった。日本ではなく、どこか東南アジアの国みたいな雰囲気を感じた。タイ人が歩いてても、おかしくないと思った。気候、風景、光の強さ。漢字の標識さえなければ、日本じゃないみたいだった。僕は、こんな身近に外国みたいな地方があったのかと、ハッピーな気分だった。

しかし、その反面、めちゃめちゃハードな修行の波動も立ち込めていた。暗く厳しい雰囲気、孤独感、男性性の極み。特に、23番薬王寺から24番室戸岬最御崎寺にかけてのルートは、全札所間の距離が2番目に長く、75キロを越える行程である。お遍路する人たちの間でも、特に厳しい難所として有名だ。

僕は、お遍路道自体から伝わってくる暗くて重い波動を感じていた。当然でしょう。今まで何千万人もの人が、何百年もの間、つらい事情と心を抱えて歩いた道だ。挫折、失望、離婚、病気、破産。乞食遍路とかハンセン病の人とか、お遍路でしか生きられない人もいたでしょう。それを思うと、さらに、濃くてヘビーでダークな場所に来ているという実感が湧いてきたのだった。辛かったね、皆さん。

ちなみに、高知を抜けると、一気に女性的で優しい国になる。文字通り、愛媛県は自然も豊かで暖かい国だ。最後の香川県は、あまり強い印象はない。フラットで平坦な土地が広がっている。この4つの国を比べて、日本の意識革命が高知で始まったのが、腑に落ちる気がした。密教の世界に聳え立つ空海。いかめしく孤高で、容易には人を寄せ付けない空海は、巨像となって、まさに高知県室戸岬に立っている。

しかし、この室戸岬はまだ遠い。残暑厳しい9月、僕は高知県に入ったばかりだった。ある男と遭遇するまでは、まだまだ元気だったのだ。  

Posted by エハン at 09:49Autobiography

2007年12月23日

「お遍路さんですか?」




「7回目といっても、まだまだ修行足りないですから。会社勤め以外の自分の時間は、お遍路する
ことにしてるんです」
 
僕は心底感動した。普通、1回やれば十分なのに、7回なんて。ハンパなことじゃない。もう本当の
修行だと思った。現代の修行者に会った気がした。どこまでやっても、究めたということがない。
伝統的日本人の姿だと思った。

「洗心」という言葉が浮かんだ。僕も歩いているから、彼のプロフェッショナルな魂がよくわかる。
巡礼のプロとはこういう人なのだ。日本はやはり美しい国だね。そういう思いが湧いてきていた。

しかし、一方で気になることがあった。とにかく若い人の姿が見えないし、人気がなさすぎる。誰が買
うのか、流行遅れの古い洋服が2000円で売られている。店には誰もいない。村全体に活気がない。
一番合理的な説明として考えられるのは、みんな家にこもってテレビを見ているということだった。

外出すれば金もかかるし、必要以上の買い物はしないのだろう。四国は経済的にかなり苦しいのだ。実際に、地元の人から聞かされたときはショックだった。

「あんた、地元じゃ毎月の生活費どのくらいやと思う? 17万円ですよ。それで子供を学校に行か
せて生活せんならん」

たった17万円。僕は言葉もなかった。活気などあるわけないんだ。古くて懐かしい日本の風景はゴーストタウンだったのだ。経済的に苦しければ、雰囲気は暗くなるのは当たり前だ。毎月一回、
4泊5日のお遍路をしながら、四国のダークな部分に気づきだしたのは、徳島県を抜け、高知県を
歩いていた秋から冬にかけてのことだった。

冬になれば、お遍路の姿も少なくなる。だからといって宿は閉じられない。一人の僕のために、営業
していてくれる。それでたった5000円だ。この大変さ、わかりますか。めちゃめちゃきついことですよ。

地元の人は、お遍路さんにそれほどのシンパシーを持っていないようにさえ感じた。僕の経験では、
8割以上の農家の人は、お遍路を無視している。むしろ、〝お遍路なんて、宗教くさいことようやるわ。なんや格好つけて……。こっちはそんな余裕ないわ〟という感じなのだ。これははっきり伝わってきた。特に働き盛りの世代は、そういう雰囲気を醸し出している。当然でしょうね。みんな生活するのに精一杯なのだ。

歩くほうも必死、生活してるほうも必死。非常に重苦しい波動を感じ始めていた。
ただ、爺ちゃん、婆ちゃんは違った。この人たちは、この土地でずっと農業やってきて、70年、
80年、苦労を重ねてきた人たちだ。お遍路のつらい事情もわかるのだね。道で出会うと、必ず頭を
下げて、「ご苦労様です」と言ってくれる。中には、「ちょっと待ってな」と、桃などの特産フルーツを
わざわざ持ってきてくれたりする。

あるときには、軽自動車が停まって、おばちゃんが降りて近づいてきた。

「お遍路さんですか?」

はいと答えると、おばちゃんは、どうぞと言って、アイスクリームをくれた。たぶんアイスクリームの
商売をやってる人だったんでしょう。でも、見知らぬ外人相手に、アイスクリームだよ? はあー、
日本人はすごいなあと思った。感激した。こういうところで、人を疑わないのだ。心から素晴らしいと
思う。もし、イギリスにお遍路があったとしても、頭も下げないし、ご苦労様なんて声をかけたりしないだろう。単に怪しまれるだけだ。僕が、日本に「人間に対する基本的な信頼が残っている」というのはこういうことなのだ。お遍路さんに対する「お接待」と呼ばれる行為なのだけれど、封筒に千円とか三千円とか入れて渡してくれる人もいるのだ。

「冷たいものでも飲んでね」  

Posted by エハン at 09:40Autobiography

2007年12月13日

草ぼうぼうの喫茶店




で、どうなったか。実際はほとんど雨降らずの一日だったのだ。これはどういうこと? 
お天気お姉さんが嘘を言ったのか?そうじゃない。祈りの言葉が台風を逸らしたのか? 
当たり前だけど、そういうことでもないね。

これは、直観に従うということだ。僕は、自分の直観に従って、雨も風も気にしないことを選択した。
自分にとって重要な23という番号を選択したということだ。だいたい日本のニュースは大げさすぎ
るね。それがマイナスの状況を引き寄せてしまうのだと思う。

だって、あの親子遍路さんが示してくれたことは、天気予報がかきたてる不安が、「旅を中止する」
というマイナスの状況を現実化させたということだからだ。「マラナサ」。これからバッドニュースが
たくさん溢れる次代に、どうぞ皆さんにもオススメします。

というわけで、田舎の道をずんずん歩く。めちゃくちゃ暑いけれど、徳島の道は気持ちがいい。
お寺にはお遍路さんたちが集まってくるけれど、歩き始めれば人気は極端に少なくなる。
古い民家、誰もいない喫茶店、草ぼうぼうのガソリンスタンド。

鳥の声、風の音、かすかに聞こえる飛行機の爆音。自動車もあまり通らない。
古びたメニューが掲げられたままの喫茶店、錆びついた「オロナミンC」の看板、時々路地裏から
出てくる爺ちゃん、婆ちゃんの姿。ほとんど「まんが日本昔ばなし」のテーマソングでも流れそうな
雰囲気である。30年前の日本にワープしたような感じだった。昔の日本がそのまま、そこにあっ
た。古くて平和な感情と懐かしさが湧いてきた。

「暑い!でも素晴らしいね、このお遍路は!30年前の日本にワープしたみたいだ」
北朝鮮の問題とかインターネットとかIT社会とか、ニュースを賑わすキーワードにまったく無関係
な様子で、お遍路道は穏やかな自然に包まれていた。



いいねえ、この道は。バブルにも高度成長にも四国は参加しなかったのか。汚染されていないん
だね。

感動した僕は、四国の田園風景を写真にとっては、パソコンでレポートしようとした。ところが、四国
はきわめて電波状況が悪いのだね。今の日本であり得ないほどだ。僕は大笑いしてしまった。
「電波通じへんのか。現代に取り残されとる。もう四国大好き!」

ただ、笑ってばかりもいられなかった。背負っているパソコンが無用の長物となったのだ。僕のパソ
コンはパナソニックの「タフブック」というヤツで、頑丈かつ最強の耐水性を誇っている。
その代わり、超重いのだ。

こいつのせいで、1日目から僕のリュックはクレージーな重さになっていた。
「パソコンはもう要らん。四国お遍路にはパソコンは不要なのだ」

僕は3日目にレポートをキッパリと諦め、宅急便で送り返した。持っていて意味がないものは、即減
らす。せっかく持ってきたのにとか、電波の通じるところなら使えるかもしれないなどという未練はない。

持ち物を減らすということには、どういう意味があるのか。まず身が軽くなるね。そして、フィジカ
ルにも精神的にも楽になる。それがわかっているのに、ほんの時々しか役に立たない代物を、なぜ
人は物を持ち続けようとするのか。これは第一の大きなレッスンだった。

毎日朝6時には宿を出た。だいたい僕が一番早かった。平均して25キロから30キロ歩く。順繰りに
お寺に着いては、納経帳に寺の名前を筆で書いてもらい、ご朱印をいただく。
驚いたのは、どこのお寺にも、毎日納経帳にサインをしているお坊さんがいるということだった。
じっと動かず、座ったまま、毎日同じことの繰り返し。たぶん、サインするのは一日百人以上だと思う。
もちろん一回300円だから主な収入源になる。とはいえ、誰でもできる仕事じゃない。この人た
ちは本当にすごい修行していると思う。

お遍路にも驚くべき人がいた。その人に出会ったのだが、「もう7回目のお遍路」だというのだ。
50代のサラリーマンだという。金曜日の夜に四国に来て、土日で毎日50キロ歩いているという。
きわめて几帳面で真面目な人だった。お遍路姿にはちまきを締めた男は、静かに言った。  

Posted by エハン at 10:12Autobiography

2007年12月05日

The number 23



ともかく、僕は霊山寺でお遍路グッズを買っている人たちを尻目に、さっさとリュックを担いで歩き
出した。僕はお遍路の格好はしない。菅笠も白衣も着ない。金剛杖も持たない。持っているステッ
キは、富士山に登ったときから使い始めたもので、アンデスにも2回持っていった。決められた
スタイルというものには従わないのだ。


今日の予定は30キロ。スタートから出遅れた僕には時間がなかった。夕方までに宿に到着しな
ければいけない。お遍路は時間との戦いでもある。僕は独りで歩くことを原則にしていた。だって、
僕はハイキングしに来たわけじゃないし、誰かと競争しているわけでもない。自分のペースを保って
歩くことが大事なのだ。それに独りで歩くと、自分の心の汚れが、かなり明確に見えてくるからよい
のだね。

空からは真夏の日差しが降り注いでいた。超暑い。日に焼けて、すぐに顔が真っ赤になる。ほとん
ど赤鬼だ。それでバンダナを巻き、ひたすら歩く。歩くことに集中し、自分だけの祈りの言葉をひた
すら唱える。「maranatha」という言葉だ。今の聖書にはないけれど、古代から聖書の最後の言
葉として有名な祈りの言葉だ。

「キリスト意識がいまここにありますように」という意味だけれど、別にキリスト教の神に限ったわ
けじゃないんだ。マントラみたいなものだね。この祈りは短いからいい。何時間も唱えていると、
自分が捉われていた思い込みを捨てられる。例えばこんなことがあった。

23番札所に向かう前日、天気予報では台風情報がさかんに流されていた。「大変な暴風雨になる
見込みで、厳重な警戒が必要です」と、お天気お姉さんが真剣な表情で伝えてきた。でも、外を見
ても、僕にはそんなに危うい感じは持てなかった。

こういうとき、どうするか。民宿で一緒に泊まっていた親子のお遍路さんは、旅を中止することを選
択した。僕も少し迷ったけれど、こういうときこそ、「maranatha」だね。恐れとか不安とか、ネガテ
ィブな意識をクリーニングするのだ。

「よし、決めた。僕は行く」
 
23という数字は僕にとっては、特別な数字だ。『裸のランチ』を書いたウィリアム・バロウズも言って
いたけれど、23は神秘を引き起こすオカルトナンバーなのだ。これは、シリウスと関係が深い。
シリウスについて、また後で語るけれど、ともかく自分がつねに注目してきた番号なのだ。  

Posted by エハン at 10:45Autobiography

2007年11月25日

迷う意識




あらかじめ決められたコースと、そこから外れること。不注意でなくても、僕はそもそも、決められた
コースを、その通り歩くことが好きじゃないんだね。すぐにコースアウトしたくなる癖がある。
でも、お遍路は決められたルートを歩かざるを得ない。他の人も、なぜか違う道を行きたくなるらしい。

で、迷う。完璧に迷子になるね。そのとき初めて、外れたくなる自分に気づくわけだ。自分のやり
方を押し通し、人の言うことを聞かない頑固な自分に、まともに直面させられる。正しい道を行くの
が一番早い道なのにね。

でも、迷うのは僕だけじゃない。実は、大詰めにの88番に行くときのことだった。
ある30歳の男性と一緒に出発した。彼はかなりの健脚だった。まるで競歩のように歩く。さすが
若いね。平均時速6キロだというから、ついて行けない。こういうときは互いのペースを尊重する。
お遍路は競争じゃないからね。僕は、先に行ってもらうことにした。

僕が、午後になって88番寺に到着したとき、彼はとっくに着いているはずだった。ところが、
ついさっき到着したばかりだと言う。

「どうしたの? 何かあった?」
「3回も迷った。もう参ったですよ」
「どうしたの? どこで迷った?」
「女体山の下りで……」

彼はため息をついた。確かに女体山の道は草ぼうぼうで、ほとんど誰も歩かない道。標高
770メートルの山道には岩場もあって結構大変だ。下りる道はもっときつい。
「下っては間違いに気づき、登りなおしてまた迷い、結局3回迷ったです」

まあ、あそこなら迷っても仕方ない、女体山だもの。最後に女の身体に登るんや、30歳なら迷うの
は当たり前やね。人生これからということじゃ。

という自分も、お遍路道で何度も迷子になって、地図を上にしたり斜めにしたり、ホント苦労した。
何度もルートを見失った。あまりに何回も迷うと、自分の馬鹿さ加減に腹が立ってくる。思わず天に
向かって吼えたね。

「もういい加減にせんかー! このアホたれが! いつまで迷えば気が済むんじゃ!」
日焼けしたガイジンの奇行蛮行に、農作業している人もビックリしてたね。もっと驚いてたのは、
お遍路始めたばかりの「ピカピカのお遍路さん」グループだったけれど、構うもんかという気分だった。

すっかり頭に血が上っていた。僕は、新人お遍路さんたちに、〝これから大変なことになるよー。
楽しいのは今のうちじゃー〟と胸のなかで毒づいていた。

まあ、最後の頃になって、ようやく農家の人に道を尋ねられるようになった。
そして、そのたびに、〝訊いておいてよかったぁ。思い込みで歩き続けてたら、どないなってた
やろ〟と心から安堵したものだ。こうした気づきは、自分の身体で学ぶしかない。自分の癖を
発見していくということだ。

癖は良し悪しの問題ではない。自分の思考パターンの囚われだ。その癖が、現実を呼び寄せる。
僕の場合なら、メインロードから脇道に逸れたくなる。決まった道を行きたくないんだ。で、迷う。
道という言葉には、言霊があるでしょ。ホント、人生の問題が詰まってますよ、四国のお遍路は。  

Posted by エハン at 07:23Autobiography

2007年11月17日

注意不足の注意



その時だ。オフィスのベランダでふと閃いた。
「ん? そういえば、日本にも何か巡礼の道があったな……88ヶ所歩くとか……」
調べるとすぐにわかった。「おへんろ」というのか…どういう意味じゃ? 巡礼という日本語は
知っていたが、お遍路は知らなかったのだ。

「あれ、四国ならすぐ近くじゃないの。これ行けるやないか、よし行く。決めた!」
僕の頭の中には、お遍路する自分にカミーノを歩くイメージがダブって浮かんでいた。
距離や場所は関係ないのだ。目的地が違っても、歩くことと祈ることはどこでも同じ。
それに、僕はいまヨーロッパで生活していない。祖国スコットランドよりも長い時間、日本で
過ごしている。それだけ日本にはお世話になっているのだ。

キリスト教徒とか仏教徒とか関係ない。僕はそもそも旅人だった。歩きながら人生を振り返る
ことが最も大切なのだ。そう考えれば、四国お遍路は全世界の巡礼をするのと同じになる。
つまり、お遍路が重層的な意味を持ち、フラクタルになるということだね。

そうと決まったら、僕は早い。誕生日の7月9日に、「お遍路やるぞー」とブログで宣言した。
絶対にやらざるを得ない状況を作ったのだ。言挙げですね。こうしないと人間は言い訳しちゃう
からね。これから何か始める人も、秘密にしないほうがいいですね。宣言すること、誓うこと。
退路を断つということ。これが人の力をどれだけ引き出すかということだ。

お遍路は徳島から始まる。市内にバイクを駐車し、3泊4日歩いて戻ってくる予定だった。
毎月一回、同じようにバイクで目的地近くまで行ってはお遍路し、終えたところでバイクの場所
まで戻って帰るというやり方で、88ヶ所回ることに決めていた。歩き遍路の場合は、こうして4日間
くらいで区切りながら、回るのが一般的だ。

一番寺、霊山寺までは歩いていくつもりだった。詳しい場所は確認しなかった。日本のことだ
から、お遍路さんのために、「お遍路の方、こちら←」みたいなでかい標識があるだろうと思い込ん
でいた。だって、日本はそういうところ親切じゃない?

で、最初から道に迷った。標識なんか一切ないのだ。これは象徴的なことだった。インドもアフリカ
もたった一人で旅してきた僕が、徳島市内でなんでいきなり迷うか? これには参った。でも仕方
ない。地図を広げてみると、市内からずっと外れたところに霊山寺はあった。こうなったら歩きな
がら訊くしかない。〝一番寺はどこですか?〟 みんな親切に教えてくれるんだけど、道が超や
やこしい。結局、辿り着くまで1時間近くかかってしまった。要するに、自分のやり方が通用しな
かったんだね。旅のプロだと自認していて、油断したのだ。

この「迷うということ」は、最後まで一貫した試練になった。お遍路のコース自体、実に複雑で、注意
深く地図を見ないと迷子になる。進んでいるつもりが、戻っていることもある。自分がいま立ってい
る場所、方角、お遍路道を示す小さな赤い標識。気楽に思い込んで第一歩を踏み出すと、えらい
ことになってしまうのだ。

39番札所に向かって歩いていたときのこと。すっきりした快晴で、冷たい朝の風が気持ちよかっ
た。向こうからお遍路さんが歩いてくる。歩き遍路の方だ。すれちがって、しばらくするとまたお
遍路さんがこちらに向かってくる。〝ああ、この人たちは逆周りしているんだな〟。そう思い込ん
だが、実は逆回りしているのは自分だった。もう歩き始めてから1時間も経っていた。〝ああ、自分
はなんて馬鹿!〟。僕は天を仰いで、大慌てで戻る羽目になった。不注意は、エネルギーも時間
も浪費させるね、まったくの話。自分の周りに何が起きているか、それを注意深く観察するとき何が
起きて、観察できていないとき何が起きるのか。よく観察することは、人生の大きな課題だと思うん
だね。  

Posted by エハン at 07:23Autobiography

2007年11月11日

第2章 お遍路は人生のレッスンだ



7月11日の朝、神戸は夏空が広がり、風が強く吹いていた。
僕はバイクにまたがり、一路徳島市を目指していた。リュックにはノートパソコン、本、着替えに
巻き煙草、そして巡礼地図。

お遍路には決まったルートがあることは知っていたけれど、事前にあまり調べることはしなかった。
そもそも、僕はガイドマップみたり、事前に調べたりすることは好きじゃないんだね。若いときから
そうだった。「インドはだいたい東のほうでしょ」とかね。アバウトに分かれば、とにかく行けばいい
んだ。調べすぎるとロクなことはない。縛られるだけだ。

「よっしゃ、やったるでー」
明石海峡大橋は強い横風が吹いていた。バイクに風は大敵だ。まるで行く手を阻むかのよう
だった。荷物は重い。横風にふわっと持っていかれそうになる。ハンドルを握り締めていないと
転倒しかねない。〝お前、この強風でもお遍路するんか。死ぬかもしれんぞ、わかっとるか〟

風神様に試されているようだった。僕も本気で祈ったね。〝お遍路やらせてください。頼みます〟
と。ようやく風がおさまったのは、徳島市内に入ってからだった。まさに、最初から試練のスタート
だった。

といっても、実は、最初は、お遍路をする予定ではなかったんだね。
当初予定していたのは、スペインにあるサンチャゴ・デ・コンポステーラへの巡礼の道カミーノを
歩くことだった。カミーノは、スコットランド人として、そして一応クリスチャンとして、一生に一度は
歩かないと駄目だと思っていたし、人生の区切りにふさわしい。日本でも、シャーリーマクレーン
やパウロ・コエーリョの本などで知っている人も多いだろう。



54歳の誕生日が近づいてきていた。50歳を過ぎた頃から、人生の残りの時間について考える
ようになっていた。この年齢で、一度今までの人生を眺めわたし、1サイクル完成させたいという
思いが強くなってきていた。言っておくけれど、何かの記念とか思い出に浸るということとは、
まったく違う。これからを生きていくための使命を果たしておきたかったのだ。

日本でも「人生五十年」と言う。サラリーマンなら定年が見え始める年齢だ。会社に入って30年、
一見順調な人生に見えたって、自分自身の決まりきった思考に行き詰まりを感じていない人はい
ないはずだ。たとえバリバリ出世していたとしてもね。別にこれは特別な問題じゃない。

自分のこと、健康のこと、夫婦のこと、いよいよ直面しなくちゃいけない課題が見えてくるということ。
逃げていたって始まらない。

カミーノに行きたい理由は、有名だからというだけではなかった。僕がここ数年調べ続けてきた
「テンプル騎士団」が、カミーノを完成させたという説があるからだ。

テンプル騎士団は『ダ・ヴィンチコード』にも出てくるから、名前くらいは知っている読者もいるだ
ろう。十字軍に端を発する騎士修道会であり、全ヨーロッパに支部を張りめぐらせた巨大金融
結社でもある。



12世紀頃、サンチャゴ・デ・コンポステーラに向かう巡礼者のために、宿泊施設をくまなく設置し、
食事の世話もし、ルートを整備したのがテンプル騎士団だったのだ。当時、この道を歩くために、
旅人は1か月分の金貨銀貨を持って歩かねばならなかった。当然、追剥にも狙われるし、第一重
すぎる。そこでテンプル騎士団はきわめて合理的なシステムを編み出した。

それがテンプル騎士団発行の預金ノートだ。巡礼をしている間は、旅人は宿泊所や食堂で使った
額をノートに記入するだけでいい。あとは、目的地で精算すればよかった。まさにクレジットカード
の原型だ。

ちなみに、テンプル騎士団は銀行の原型も作り上げていた。当時、各国の王は戦費の調達に頭
を悩ませていた。戦地に遠征するのに、莫大な金を持ち歩くわけに行かない。その悩みを解決する
のに手を貸したのが、テンプル騎士団の支部ネットワークだった。

騎士団の各国の支部は独特な円形の建物で、屈強な戦士が入口をガードしていた。王たちは自分
の国の支部に財貨を預けたのだ。そこで小切手を発行してもらえば、あとはどの国でも金が引き出
せる仕組みだった。

修道会として清貧を重んじ、スピリチュアルでありながら、巨大な金融システムを利用して巡礼者
のために力を尽くしたテンプル騎士団。そのなかで脈々と巡礼者が歩き続けてきたカミーノ。
どうしても行きたい……行かなくちゃ駄目だーと心の中で叫んだ。

ところが、この道は全行程800キロ。歩き通すには少なくとも一ヶ月はかかる。
「ああー、そんなに仕事休めん……。どうしたものか」僕は迷っていた。何回かに分けて歩くのは、
もっと大変なことになる。でも行きたい。誕生日まであと2ヶ月足らずの5月になっても、僕はまだ
決めかねていた。

バチカンの最近の発表で「テンプル騎士団は無罪だった」ことをある本で
証明した。
  

Posted by エハン at 07:23Autobiography

2007年11月05日

お遍路をするようになるお話

僕はこのエピソードを聞いたとき、とても心を動かされた。彼女は、ホントの信仰を持っていたと。
この女性は、死ぬための理由を確かに持っているんだと。
生きるための理由なら、誰でも、いくらでも見つけられる。でも、みんな死ぬための理由は持って
いない。

自分は何のために死んでいくのか。放浪のなかで、僕が考えていたことは、おそらく、「死ぬため
の理由」だった。もちろん、無意識だったけれど、冒険し続け、放浪し続け、限界までテストされる
ことは、たぶん僕の魂が本当に求めていたことだったのだ。極端な体験をしなければ、奇跡はわ
からないと思う。

だから、スコットランドに戻っても、大自然のなかで働くことを選択した。庭師とかダイバーとか肉体
労働だね。でも、また旅に出たくなる。スコットランドは暗い、つまらない、鬱陶しい、また旅し
なくちゃーって叫んだ。



鈴木大拙老師

その頃読んでいたのは、鈴木大拙の禅の本だった。今まで出会った哲学や宗教と違って、
ものすごくピュアなものを感じた。毎日、禅仏教の本を読みふけった。こんなシンプルな哲学が
あるんか、すごい閃きだった。

〝もう絶対、日本に行かなくちゃ駄目でしょ〟

アバディーンの植木屋で汗まみれで働き、自然の風に吹かれながら、19歳の僕は決意していた。
それから、36年。ヒッチハイクでインドにも3回旅したし、アフリカ縦断もした。南米にも何度も
行った。プロローグでも書いたけれど、バブルまでの15年間、日本に住み、ビジネスで成功もした。
そして、2006年7月11日の朝、僕は四国お遍路の旅に出ようとしていた。

日本に再び住み始めて6年目、54歳になっていた。3人の子供は独立し、妻も仕事をしている。
会社を立ち上げ、本を執筆し、呼ばれれば講演をする日々だった。物質的にはなんの問題もない。
けれど、僕には追究したい、いや追究しなくてはいけない謎があった。

それは、3歳のときの不思議な記憶。ごく庶民的なアパートメントの5階に住んでいた僕は、洗い
場がある中庭にひとりでよちよちと下りていった。ワックスで磨かれたリノリウムの床、階段を下りる
自分の足先。いまでも鮮明に覚えている。3歳の自分を、外から見ている自分がいるようだった。



異次元体験をした故郷の団地 (黄色ピンの前の庭に今でも白い洗濯物)

と、突然、目の前の世界が輝きだした。信じられないくらいの光があふれていた。
〝すごい綺麗だ!〟 そう思った瞬間、2000フィート上空に意識が飛んだ。遥か下に自分がいる
のが見えた。視点が3つに増え、多次元になっていた。3歳のときにこんなふうに言語化できた
わけじゃないけれど、それは物質的な風景ではなく、まさに天国にシフトした感覚だった。

「この光は、いったい何?」家族に聞いても、どんなに書物を調べても、わからなかった。これこそ、
僕の人生の原点にある謎だったのだ。

そしてもう一つ謎がある。僕の頭の中枢では、ある音が鳴り続けている。時折、強く高くなる不快
な音。電気的な音とでも表現するしかない不気味な音。耳鳴りとは違う。12歳から突然鳴り始
めたこの音は、医学的には解明も治療もできなかった。この厄介者とは40年以上付き合ってきた。
ホントよく気が狂わなかったね、と思う。

50歳を過ぎて、この音が少しずつ高くなってきている。どうなるか、受け入れるしかないけれど、
動かずにじっとしていると、ひどくなるのだ。何を意味しているのか、いつか消えるのか、まったくわ
からない。でも、少なくとも僕に与えられたギフトだと考えることにしている。だって、この音は僕に
とっての十字架かもしれないじゃない? だったら、受け入れるしかないよね。たぶん、誰しもがそ
ういう何かを背負っているんじゃないかと思うのだ。

僕は、自分に問いかけた。「何のためにお遍路するんや?」と。
答えはすぐに返ってきた。

「ハートを、魂をクリーニングするためでしょ。そのために歩く」

それしかないのだ。日本には、「洗心」という言葉がある。まさに心のクリーニングだ。歩くことは、
肉体的な鍛錬ではなく、きわめて精神的な問題なのだ。それも、日本最大の聖地をゆく巡礼だ。
巡礼と言っても、仏教とかキリスト教とか、特定の宗派は関係ない。

僕にとっての巡礼とは、「目的意識を明確に持って、祈りながら歩くこと」であり、「歩きながら祈ること」である。

ならば、なぜ日本の四国なのか? それは、まさしく歩きながらお話しましょう。次章からは、
僕の歩き遍路の旅を話しつつ、僕自身が体験してきた人生の神秘についても語っていこうと思う。
さあ、行きますよー。歩く祈りの始まりだ!  

Posted by エハン at 10:32Autobiography

2007年10月29日

4つの人生



要するに、ジジイになったら世を捨てて、褌ひとつでヒマラヤに行こうということやね。
周囲の聖者たちは、ほとんど第4のライフの人ばかりだった。第3のカルマ・ヨーガすら
終えてない18歳の僕が、そこに入り込んでしまったわけだ。同じような放浪者の格好をして…

聖者たちは、完全に思い込んだ。
――お金ばかりの国ヨーロッパからきたにも関わらず、裸足で放浪している。スピリチュアルな
探求をしている人に違いない、と。
 
で、食べ物を提供してくれたり、水をくれたり、大切に扱ってくれる。極端な人になると、僕の足を
頭で触ってくる。ちょうど、アマルナスのお祭で、全国からサドゥが集まってきていた。
僕は、元マドラス大学の英文学の教授と親しくなった。彼は英語ができたし、とてもおしゃべりだっ
たのだ。

なぜおしゃべりだったか。実は彼は86歳で26年目の巡礼をしている最中だった。このお祭が
終わると、彼は死ぬまで沈黙の修行に入らねばならなかった。西洋人で同じように物質世界を
捨てて来ている僕らヒッピーに話をすることは、彼にとっても刺激的だったと思う。サドゥたちは、
地元の人たちからは、「偉い人」と扱われるだけで、真のコミュニケーションをとることが難しかった
のだ。

話題はいくらでもあった。スピリチュアルライフとは何か。巡礼とは何か。聖地とはいかなる場所
なのか。夢中で話をし、時を忘れた。

でも、身体は正直だね。相当まいってきていた。がりがりに痩せた。このままここに留まるのも
楽しいけれど、下手すると死んじまうかもしれない。現に、赤痢や栄養失調で亡くなった友だち
もいた。密林のサドゥに会いに行って、野宿しているところを象に蹴られて半死半生で故郷に
送り返された仲間もいた。

国へ帰ろう。このままでは生命の危機に陥る。僕は思った。さすがにきつくなってきていた。
自分のカルチャーにいったん帰って、僕のライフをもう一度始めよう。時計を逆回しにしたように、
僕はロンドンを目指した。もちろん、ヒッチハイクで!



映画に出演した18歳のエハン


19歳の誕生日は、アフガニスタンのカンダハールで迎えた。再び、猛烈な赤痢にかかっていた。
地元の人たちは親切だった。金のない僕に同情してくれた。けれど、彼らは超極端だった。
彼らの治療方法は、アヘンだった。アヘンの塊を食って赤痢を治す。なんですか、これは。
あり得ないと思った。もう、アゴが外れそうだった。アヘン食うか?普通。

みんな口々に、一晩で治るから飲めという。しかたがないですね、飲みました一塊のアヘンを。
ものすごく油っぽくて気持ち悪い。ようやく飲み下すと、丸一日ぶっ倒れて、ものすごい夢をみな
がら吐く。吐いては夢を見て、夢を見ては吐く。その繰り返し。でも、一発で治った。

アフガニスタンの人にとって、アヘンはいわゆるドラッグじゃない。漢方薬みたいなものだ。
日本やイギリスでアヘンを使ったら、ドラッグということで、きわめて良くないと言われる。
逮捕されるでしょ。でも、僕はアヘンで赤痢を治した。ここが、ポイントですね。
学びがあったわけだ。薬って何? ドラッグって何ということ。あの塊に化学的な変化
加わって、注射すれば間違えなく「中毒」させるドラッグに変身する。

この後も、いろんなことがあったけれど、6週間後、ようやくロンドンまで帰り着いた。
僕の人生にとって非常に重要な学びだった。それは、独りで行動するということ。
そして何かを信じるということだ。

別に特別な宗教でなくても、何かに対して信仰心を持つということを学んだ。一文無しになっても、
病気になっても、にっちもさっちも行かなくなっても、誰か何かが助けてくれる。本当に神様が現
れるようにね。それの繰り返しのなかで、「ああ、宇宙はサポートしてくれてる」と実感していった。
別に特定の神様じゃないよ、この話は。

「絶対になんとかなる。何があっても生きていける」という自信は、旅のなかで生まれた。
すなわち、心配を吹き飛ばすということだ。

これは頭でわかっただけでは、絶対にできない。わかった気でいると、40代になって同じ問題に
必ずぶつかる。将来への不安とか心配とか……。だから鬱病になってしまう。動かされるような
探求の旅のなかで、僕は身をもって実感した。これこそ、旅からのギフトだ。



典型的なNagar Babaのサドゥたち

旅のなかで、哲学書や宗教書を読みながら、毎日毎日生きていく。あの頃、僕のバッグに入っ
ていたのは、本とパイプとパスポートだった。もちろん、食えない日が続くことも、寂しさや孤独感
に陥ることもある。でも、それを克服していくのが旅ということだ。それこそが「巡礼」だ。

これは、ほとんど信仰のトレーニングだ。「信じること」とはどういうことか。これは大学に行っても
宗教家になっても、たぶん学べないでしょ? それが毎日試されていくことが、旅なんだね。


僕みたいに生きるのは、ホント極端だ。自分でもクレージーな大冒険男だと思う。なんでこんな
人生か? それこそ人の心の神秘だ。極端なことをやらないと気がすまない、限界までいかない
と、本当の自分になれない。

僕は、人というのは限界に立って初めて、自分が何者であるかがわかると思う。厳しく試されて、
追い詰められて、その最後のところでわかってくること。それがホントの人生でしょうと思う。 
ここに、昔ローマで迫害されたキリスト教徒たちの話がある。一世紀ごろのことだ。

ある女性クリスチャンがローマ政府に捕らえられて、アリーナ(円形競技場)に連れてこられた。
ローマ人たちは、彼女が拷問されるのを見物しに来ているんだね。「もし、信仰を棄てたら助け
てやる」そういって拷問するわけだ。



鉄製の椅子に彼女を縛りつけて、下から火で炙っていく。もう普通なら、「もうやだー、クリスチャン
はやめるー」と叫ぶでしょ? でも彼女は信仰を棄てなかった。そして、こう言ったんだ。「棄教
るくらいなら死んだほうがいい」。  

Posted by エハン at 09:36Autobiography

2007年10月14日

Kathmandu



The Hog Farm

高地カトマンズに着いても、泊まる場所がない。どこで眠るかということを、僕はいつも大切に
考えていた。翌朝を迎えられずに死んでも後悔しないところ。繰り返すけれど、毎日が未定で
何が起きてもおかしくないでしょ、人生は。

考えた末、僕は穿いていたジーンズを売ることを選択した。よく売れたものだと思うけれど、その
金で一泊分の宿代ができた。もうパンツ一丁だった。ここまでくると、人間どんどんシンプルに
なる。寝るならばこれで十分でしょ。これも冒険、笑ってしまうよホントに。僕は、涼しいカトマンズ
の夜の底で、充足感に満ちていた。

翌朝になっても下痢は治らなかった。金は尽きた。独りだったけれど、寂しいなんて思わなかった。
感傷にひたっている暇はなかった。現実に今夜泊まる場所を探さなければならない。町に出ると
意外な噂が耳に入ってきた。

「大きなヒッピーグループが来ているらしい」
「何という団体?」
「ホォグ・ファームだよ、知ってるか?」

なんてことだ! 僕は快哉を叫んだ。ホォグファームは、世界一有名なヒッピーグループだった。
当時古ぼけたヒッピーバスで世界中を巡り、貧しい人々や子供たちを助ける活動をしていた。
『ウッドストック』という映画のなかで、「50万人のブレックファーストしようぜ!」と叫んでいる人
たちだ。



天の助けだと思った。彼らはバスで移動しているからお金もあるし、食事もシェアしてくれる。
赤痢地獄から僕が生還したのも、彼らのおかげだった。みんな自由で大きな心を持った人
たちだった。

それからの日々は、刺激にあふれていた。日当20ルピーで映画のエキストラやったりした。
インドの有名な監督から、「あるがままのヒッピーを撮りたいから何をしてもいい」と言われたのだ。
僕らは市内の中心にあるお寺に入り込んで、ドラミングをすることにした。

始めてまもなく、寺の広場に群衆が集まってきた。いぶかしげにドラミングを眺めている。
どんどん人の数が増えてくる。地元の人ばかりだ。「これはいいぞ、もっといける」僕はさらに
ドラムを叩き続けた。

みんながエキサイトしはじめた。どうも様子がおかしい。こちらを睨みつけている。警察も駆け
つけてきた。彼らは真剣に怒っている。
「やばい……やっちゃいけないことだったのかも……」

気づいたときには遅かった。群集は完全に殺気だっていた。自分たちの聖地で何をやっている
のか、追い払え、出て行けと叫んでいる。警官たちが警棒を振り回しもみ合っている。
まずい、本気だ。どうする? 逃げる? でもどうやって?! 興奮する人々の前で、僕らはもう完全
にフリーズしていた……。

あとはよく覚えていない。殺される寸前だったかもしれない。死んでいてもおかしくなかった。
当然だ。僕たちはただの18歳のヨーロッパ人に過ぎなかった。仏教についても、ほとんど知ら
なかった。同じような西洋人のヒッピーたちと暮らして、いい気になっていただけだったのだ。

それでもカトマンズは天国みたいな場所だった。なにしろ、政府関係の店でマリファナが買える
んだからね。まったく合法的にだ。警察官たちものんびり歩いていた。歴史も旧く、綺麗な寺も
いっぱいある。

きわめて貧しい町であることは間違いない。道路は糞だらけだし、どこも汚い。もちろん病気も
流行っている。けれども、僕にはその自由さがたまらなかった。世界一有名なヒッピー、エイト・
フィンガーズ・エディにも会った。指が2本欠けていたから、そう呼ばれていたんだ。
当時彼は45歳くらいだったけれど、一緒に喫茶店でパーティしたり、マリファナ吸ったりした。
ヒッピー最高の時代に、最高の場所に身を置いているという、間違いのない快感があった。

一ヶ月ほどカトマンズに滞在した僕は、体調もよくなって再びインドの旅に出た。放浪者だからね、
一箇所に長い間止まってられないのですよ、僕という人間は。だから、とにかく動く。移動する。
また無一文の旅の始まりだった。

持ち物も徹底的に減らした。小さなバッグとショール、それと褌(ルビふんどし)に裸足で十分
だった。足の裏は登山靴並みにカチカチになっていた。ジーパンもジャケットも要らない。
インドはショール一枚あれば寝られるしね。

目指すは山岳地帯のカシミール。織物のカシミアで有名なところ。といっても当然カシミアはい
らない。そこには聖者たちが集まると聞いていたからだ。聖者(サドゥー)はいた。全インドから
集まってきていた。長いひげをはやし、腰巻一つの半裸姿で、裸足で放浪している人たちだ。
彼らは、ヨーガを窮め、神のために生きる行者であり、巡礼者である。

彼らは、「聖なる植物のスピリット」をパイプで吸いながら、巡礼する。自分の快楽のために吸う
んじゃない。シヴァ神のために吸うのだ。マリファナをね。彼らの宗教の形は、マリファナ(ハシシ)
を吸って神様にお祈りを捧げるということ。「マリファナ=薬物=法律で禁じられている」と思い込ん
でいる人がいたら、その思い込みは外したほうがいい。世界には、「植物のスピリット」をガイドにして人生と魂の奥義を窮めようとしている人がいる。そういうことは、知っていたほうがいいと思う。

ともかく僕はかれら聖者たちと2、3週間山の中のお寺にいた。導いてくれたのは、
女性ロビンフッドみたいな聖者で、マタジという人だった。67歳くらいだったけれど、
タフな女性だった。

若いヒッピーたちにお金を配っては食べさせてあげる使命感に燃えていた。
その山寺に集って修行していた聖者は、平均70歳くらいだった。

インド哲学では人生を4つのライフに分ける。まともな社会人として仕事する期間は
、第3のライフで、そのあと、60歳くらいから第4のスピリチュアルライフが始まるとされている。  

Posted by エハン at 09:07Autobiography

2007年10月08日

インドと赤痢



僕は、父親に歓迎されない赤ちゃんだった。親父は言っていた「お前はアクシデントで生まれ
ちまったんだ。想定外だ」とね。生まれながらにして、拒絶されてたわけだ。出産も大変だった
らしい。毎晩パブに行ってた親父は、僕と遊ぶどころじゃなかった。彼にとっては、二人の姉の
ほうが可愛かったんでしょう。ケンカすることすらしなかった。そのせいで、父親を尊敬するとか、
暖かい思い出とか、一切まったくない。

こっちも当分の間、我慢して一緒に暮らすしかないというくらいに思っていた。子供心に、親に
期待しても無理だと分かっていた。「この二人の生命体からは、そんなに愛情もらえないな」と。
これは仕方のないことだ。恨むとか悲しいとか、そういうことじゃない。彼らだって生きるのに
精一杯なんだから。すがりついたりしても無駄なんだ。それなら一刻も早く家を出るしかない
じゃないか。そうでしょ?躊躇してる場合ですかっていう話だ。

僕を育てて愛情を注いでくれたのは、一番上の姉だった。図書館勤めのね。2番目の姉はまった
く違うタイプだったけど、長姉は「ブラザーができた!」と僕の誕生を喜んだそうだ。読書の楽しみ
を教えてくれたのも、その後いろいろ助けてくれたのもこの姉さんだった。

17歳で家を出た僕は、ロンドンにあるヒッピーのコミューンに転がり込んだ。平均年齢20歳。
一つのアパートを借りて十五、六人でシェアする。いつも五、六人が雑魚寝していた。
仕事をしている人もしてない人も、学歴の高い人も高卒もいた。上下も差別もなかった。
金も食料もたとえ僅かでも、みんなでシェアするのが原則だった。みんな自覚的にヒッピーとして
生きていたから、これは当然のルールだった。



80年代のノートに「三回の生まれ変われ」の上の「生」はインドの時代

ヒッピー精神の基本は、金は汚いものだという発想。金が必要だということは理解するけれど、
執着するなんてとんでもないことだった。だから、僕の姉がスーツケース一杯の缶詰をくれたと
きも、コミューンに帰ったら即缶詰パーティ。自分のモノなんて考えない、「みんな集まれー食い
もんがあるぞー」って。みんないい顔をしていた。まっすぐな目をしていた。率直な人が多かった。

この集団生活で揉まれながら、僕は自分自身の方向性が見えてきた―ここは楽しいけど、
やっぱり独立独歩が好きなんだと。ここにいるだけじゃ、物足りない!と。いつもそうだ。
これは変えられない性格だね。とことんやる、徹底的に行くところまで行く。
そうしないと気がすまない。

だったら、どこに行く? わかりますか。当然インドしかない。でしょ?。

2月のある日、ポケットに20ポンド(約4000円)つめこんでロンドンを出た。ドーバー海峡を渡る
ための費用だった。それ以外は必要なかった。ヒッチハイクで、インドまで旅するつもりだった。
本当にモノを持たずに歩き始めた。

現代のバックパッカーと全然違うよ。特にアメリカのバックパッカーは、でっかいバッグの中に、
クレジットカードやトラベラーズチェック入れてるでしょ。そんなのただ荷物一杯の観光旅行だ。
そもそも、アメックス持ってて放浪といえるか?という話だ。僕たちは生活の仕方として放浪し、
旅しようと志していた。ヒッピーになるということは、一、二ヶ月期間限定のヴァケーションじゃない。
ライフスタイルなんだね。だから、バックパッカーたちは本物じゃないと思っていた。1971年、
僕はヒッピー文化最高潮のど真ん中にいた。



後から考えれば、旅立ちのときでさえ、僕はたくさんの物を持っていた。それが、だんだん垢が
落ちるように剥がれていくんだ。ホントの垢はたまっていくけどね、実際の話。
で、イスタンブールまではあっという間だった。連続ヒッチハイクの旅は当時のオリエント・
エクスプレスよりも早かった。

自動車道路もあったし、めちゃくちゃなスピードで飛ばしていった。3日後、僕はアジアの玄関、
イスタンブールにいた。いよいよアジアだった。菜食主義者で無一文の僕は、パンとオレンジで
空腹をしのいでいた。だけどトルコから先、イラン、アフガニスタンを抜けていくのに、菜食主義は
通用しなかった。なぜか。ケパーブ(串焼き肉)しかない。もう来る日も来る日も、全部お肉。
「主義」なんてものは通用しないとわかった。まさにアジアの匂いだね。ケパーブは。

ロンドンを発って一ヵ月後。パキスタンとインドの国境まで来た。
よくここまで辿り着いた。ついに来たぜと思った。でも腹の調子がおかしくなりはじめていた。
旅先ではよくあることだ。気にも留めなかった。が、劇的に発症した。猛烈な下痢と高熱。もはや、
歩くのもやっとだった。僕は、赤痢に罹ってしまったのだった。

それでも、辛いとかやめようとは思わなかった。自分で選択したことだ。空腹も病気も当たり前。
同じように病気になったトラベラーをたくさん見てきた。こういうときは、心配しすぎないことが
大事だ。怖がらない、心配しない、後悔しない。このことがどれほど生きるうえで重要なことか。

そう思わないですか。単純だけれど、人生の意味が詰まっていると思う。死んじゃうかもしれない
という恐れを、毎日乗り越えていくということだ。これは別にインドじゃなくたって、
赤痢にならなくたって、東京だって神戸だって同じことでしょ。

「なんとかなるでしょ!まだまだ行ける!」



僕は宇宙に向かって、自分に向かって叫んだ。インドの大地を下痢しながら歩き、
ヒッチハイクした。気持ちだけは、強く前を向いていた。でもやっぱりフラフラだったね。
ハンパな熱じゃなかったもの。
よく生きてた。自分でもそう思う。

辿りついたのは、聖なる河ガンジスの街、ベナレスだった。とにかく金がなかったから、無料で泊ま
れるところを探した。ボートデッキなら泊まれるらしい。赤痢はさらに悪化していた。何も食えない。
熱でまともに立つことすらできない。唯一の楽しみは一日に2,3回ガンジス河に入って身体を
冷やすことだった。

尻からは水しか出てこなくなっていた。高熱の身体に直射日光が照りつける。暑い……、もうやばい
かもね……。で、ようやく泥水の川につかる。川の水は気持ちいいのだけれど、その脇を死んで
焼かれた人の遺体が流れていく。どこもかしこも焼けた人間のパーツだらけ。生と死。



僕も死ねばこんなになるのか。焼かれて、赤痢男のそばを流れていくのか。でもガンジスの水は
冷たくてありがたいのだった。

もうだめだ、この暑さではまいると直感的にわかった。とにかく涼しいところに行くんだ。
どこだそれは……、朦朧とした頭にひらめいた。カトマンズだ! 何と言ってもヒマラヤの麓、
涼しくないわけがないでしょ。僕はやっとの思いで、ベナレスを後にした。どうにかトラックに乗せ
てもらって、炎暑地獄からの旅も無一文のヒッチハイクだった。

To be continued..thanks to M!  

Posted by エハン at 08:23Autobiography

2007年10月04日

第1章:クレージーな大冒険野郎の誕生(続き)



『ポンヌフの恋人』という映画でも有名な橋の下で、僕はパリ最初の夜を迎えていた。
憧れのポンヌフ。でも小便くさかったね。そのうえ寒い。当然金もない。ここで寝るしか
ないのか。そう思った。

寝る場所というのは、いつもどんなときでも大事な問題だ。どこで寝るのか。
人間が寝るというのはどういう意味なのか。深い問いがここにあるのだけれど、
今夜はどうなる?

すると、若いフランス人男性に声を掛けられた。フランス語で挨拶を返すと、彼は言った。
「よかったら、俺の友だちのアパートで寝てもいいよ」
外国人との初めての交流、初めての友情。この夜、僕は小便くさくも寒くもない部屋で、
シーツにくるまって考えていた。もしお金を持っていたら、こんな幸せと人間関係は生まれ
なかった。無一文だったから、いまここにいる幸せが可能になったんだと。



Les Amants du Pont-Neuf (映画)

僕のような旅をしていると、寝る場所は思いがけない形で現れてくる。17歳でギリシャのミコノス
島に行ったときもそうだった。売血して作った金も底をついて丘を彷徨っていた僕の前に、
ちょうど一人分くらいの穴が開いた巨石が現れたのだ。僕のために誰かが置いてくれたようだった。
それから3週間、僕はそこで寝てレストランで働き、ギリシャ哲学と芸術にハマった。



Mykonos Island

パリもギリシャもきわめて刺激的で楽しい旅だったけれど、どこか物足りなかった。
僕はもっと本当のスピリチュアリティ,すなち霊性と神秘性を体験したかったし、
求め始めていた。1971年、ヒッピー全盛の時代。フリーダム&ピースの時代だった。
僕みたいなヤツは他にもたくさんいた。

高校は卒業したけれど、大学なんてあほらしいと思っていた。ロクなこと教えてくれない
とわかっていた。みんないい学校に行って、就職して、結婚して子供つくって、保険かけて
生きていく。何のために? 何なの、その社会の在り方は。バカバカしいでしょ。そんなの
人生と言えるか、何のロマンスもない、クリエイティブでもない、冒険もない。こんなのアホ。

完全にごめんだと反発した。自分の人生は自分で創る。自分の発想で生きていく。
そう決心していた。要するに、僕は本格的なヒッピーになったというわけやね。

親は何も言わなかった。まあ、何を言われても僕は親の許可を得ようとは思っていなかった。
だって自分の人生でしょ。だから自分で決めて自分で行く。親の反対とか関係ない。
これは、やっぱりスコットランド人の性格というものだ。お金も親に要求しなかった。
親は心配しただろうけれど、日本と違ってスコットランドの親は子離れが早い。逆に早く出て
行ってくれたほうが助かると思っていたかもしれない。

生まれ故郷のアバディーンは暗くて寒くて、いつも霧がかかっていた。スコットランドはだいたい
似たようなものだ。太陽を仰げる日など、きわめて少ない。
そんなところにいたら鬱になるよ誰だって。だから、スコットランド人は外国に出て行きたがる。
探険家が多いのもそのせいだと思う。自分の生まれた場所ではない、もっと違うところに行きたい。
逃げ出したい。それがスコットランドの冒険魂。非常にタフなんだ。



Aberdeenの図書館

僕も子供の頃から地図を見るのが好きだった。図書館で世界の地図ひろげて、マラケシュとか
カブールとか未知の地名に見入っていた。地理の授業なんかうれしかったね。もう目を皿のよう
にして全身で聞いてた。

知らない町の名前を覚えるのも早かった。国々の地形や国境なんかををデッサンするのも得
意だった。要するに、旅してみてえ~って心の底から思ってたわけだ。大英帝国のスピリットの
なかに、スコットランド人の「探検家DNA」は間違いなく組み込まれていると思う。

父親は魚の卸稼業をしていた。朝5時に港に出て、凍てついた北海の強風にさらされながら、
魚市場で働いていた。ボートから降ろしたばかりの冷たい魚を店に運び入れ、スモークしたり、
加工したりする仕事だった。

仕事が終わると、次はパブだ。スコットランド人のお決まりの習慣だ。これがないと、やってられ
ないってこと。完全に酔っ払って帰ってくる。で、また翌朝厳しい仕事に行く。毎日その繰り返し
だった。母ちゃんはウェイトレス。忙しそうだった。まったく、きわめて典型的な労働者階級の家
庭だった。

To be continued.....  

Posted by エハン at 10:35Autobiography

2007年09月25日

自伝:第1章 

第1章 クレージーな大冒険野郎の誕生



Art by Maasa

初めての旅は自分が生まれた国、スコットランドの中だった。
本が好きで真面目だったけど、僕はまだほんの少年だった。ある日、ヒッチハイクで
旅することを決意した。バッグかついで、行く先も決めず、計画も立てなかった。
お金も持たなかった。自分の力でどこまで冒険できるか、何が自分の人生に起きるのか、
それを試してみたかった。

そしたらこれが面白い。毎日どこまで行くか、誰に会うか、何をするか、誰にも決められ
ないし、何が起きるか分からない。こんな楽しいことってあるか!と思った。
あるスコットランド人の車に乗せてもらったときのことだ。僕は、わざとアメリカンアクセント
で喋ってみた。見知らぬ人とのコミュニケーションがどう変化するか、ちょっとした実験
というわけだった。

その親切なドライバーは、完全に僕をアメリカ人だと思い込んで、いろんな話を腹を割って
話してくれた。僕もアメリカ人としてその話を聞いた。そうすると、普通のスコットランド人同士
では出てこないような話が出てくる。つまり、自然に新鮮でクリエイティブな物語が二人の間
に生まれてくるんだ。

一種のゲームみたいなものだけれど、僕には大きな発見だった。だって、アクセントをちょっと
変えただけだよ。それだけで、とても楽しい時間を過ごすことができた。
この発見を今でも忘れない。原点にある最初の旅、最初の学びということだね。

一週間後、旅から帰って僕は心に決めた。この旅というものを、ライフスタイルとしてやってみ
ようと。それからすべてが始まった。

そのころ僕は保守的で厳しい学校に通っていた。超真面目な生徒だった、
アバディーン・グラマー・スクール」。



この学校は詩人のバイロン卿とか、幕末の英国商人グラバーも学んだ歴史を持つ名門校だ。
創立されたのは15世紀。みなさん大丈夫ですか、15世紀ですよ、想像できるか、この旧さ。
もちろん男子校。お城みたいな建物だった。スコットランドでは12歳から中学生になる。

僕は入学試験にパスしてこの学校に入学したのだった。
その頃から身体の仕組みに興味があった僕は、外科医になりたいと思っていた。
医学というよりも、解剖学や病理学に興味があった。初歩の医学書を独りで読みあさり、
内臓模型のスケッチをし、骨格や筋肉の名前を覚えようとした。

いま思えばちょっとオタク的だったかもしれない。先生は驚いていたね、きわめて特殊な
マッスルの名前を13歳の少年が口にするんだからね。

けれども、16歳から僕は180度変わった。完璧に〝ヒュッ〟とね。学校の権威的な教育に
完全に反発して、不真面目な生徒になった。少なくとも学校からはかなり注目された。
決められたルールなんか従わない。制服も着ない。髪の毛も伸ばした。



Henry Miller

当時、僕はヘンリー・ミラーやドストエフスキー、あるいは哲学的な本を読むよう
になっていた。そのおかげで、目が覚めたというわけだ。覚醒ということだ。社会システムに対する
疑問が噴出した。

学校も教会も、すべて嘘、幻想。みんな本当のことを教えられていないと思った。
姉が図書館で働いていたために、本好きだった僕は5歳くらいから濫読していたらしい。

とくにヘンリー・ミラーに憧れた。1930年代のパリや、彼が体験したようなアーティストたちと
の生活に。だから僕は、学校に行っても〝こんなつまらんオジサンたちの話を聞くよりも、
旅に出たほうが絶対百倍面白い!〟と思っていた。これこそ真実ということですよ。

僕も絶対パリに行くんだと思っていた。もちろん、やるならヒッチハイクしかない。
それがライフスタイルでしょ。それしかないよ、ここまで確信してたら。

僕は春休みを利用して家を出た。17歳の初めての外国旅行。苦労して辿り着いたセーヌ河岸は、
まだ春浅く、夕暮れには寒さが肌を刺した。

Thanks to M. for being my ghost writer!  

Posted by エハン at 12:06Autobiography

2007年09月20日

自伝のプロローグ:Part 3



2001年、僕は再び日本に戻ってきた。そして発見した。この国には人間に対する「基本的信頼」
というものがまだ残っている。もっとも最近はずいぶん低くなっちゃったけど、西欧にもイスラム
圏にも、それは比較的に皆無だ。

おいおい語っていくけれど、日本は宇宙一素晴らしい国だと思う。ホントのことですよ、これは。
大げさな比喩じゃない。だけど日本人が、自分の国のすごい部分を分かっていないんだ。
僕はそれを残念だと思う。

そして7月、四国のお遍路八十八ヵ所をやり遂げて気づいた。「お遍路は人生や。
すべての人々は巡礼しとる」ってね。
巡礼と言っても、別に宗教じゃない。仏教徒とかキリスト教徒とか別に関係ない。
目的を持って内なる旅すること、常に動くこと、「聖地」で歩きながら考える、祈ること、
それが巡礼の意味だと思う。

通勤するのも巡礼になるし、スーパーに行くのも巡礼になる。「巡礼は宗教」というのは思い込
みだ。旅をし続け、世界を放浪してきた僕は、お遍路をやって「巡礼」という言葉の真実の意味
に出会った。歩いていると、想像もできないことが起きる。毎日未定の旅のなかで、祈るという
ことが湧いてくる。

同時に、常識やルールに囚われている世界への怒りも噴き出る。そして、本当の自由、独立した
個人とは何かに気づかされ、魂が清らかになっていく。古代から現代まで、人間は巡礼し続け
てきた。なぜか。魂を浄化するためでしょ? 僕もあなたも、この星に住むすべての人々が巡礼
者になる時が来ていると思う。

伝えたい一番重要なことは、「パッション=情熱」ということ。誰をも恐れず、何が起きても怖がら
ず人生を意味あるものとして生きるために必要なのは、独立個人としてのパッションですよ。
そのためなら、何でもやる、いかなる冒険も引き受けるのが僕のやり方だ。



カナダから日本に単身赴任していた1995年の5月。その頃僕は超貧乏な生活を送っていた。
ホントにアンパンとオロナミンCだけの生活。まことに辛かったね。妻の実家のサポートを受けて、
講演活動だけで生活していたのだ。まともに食えるわけがなかった。

そんなある日、阪急電車に乗っていたときのことだ。頭上で何か二人の声がしてきた。
〝もう準備は整ってるみたいだ〟
〝そうだね、神経系も大丈夫だろう〟

 なんじゃこりゃ? 僕はあたりを見回した。乗客は別に変わった様子はない。
阪急電車もいつもどおり混んでいた。

そのときだ。〝エハンデラヴィ、エハンデラヴィ……〟って呪文のような呟きが聞こえてきた。
この奇妙な声は、かれこれ1年半も前から聞こえていたけれど、さっぱり意味がわからなかった。
僕はさすがに、おかしくなったと思った。自分にしか聞こえない声。でもその瞬間、100パーセント
閃いた。これって、もしかすると名前じゃないか? 新しい人生のための。

直後、僕は予定変更を選択した。行く先は決まりでしょ、こうなったら。
「改名したいんですけど」イギリス大使館に直行して、改名の手続きを始めた。
親が付けてくれた名前のジョン・クレイドは処分。今日から僕の名前は、エハン・デラヴィ。
そういうことになったからと、妻にも子供にも、宣言した。相談なんかしなかった。だって、
これは許しを得て行うべきことですか?ホントの意味で。妻に言ったら、アゴ外れるほど驚愕し
て怒ったね、「勝手に決めるな!、だったら私も実家の姓に戻させてもらう」って。
結局、二人とも名前が変わった。

エハンとソニア・・  

Posted by エハン at 11:44Autobiography

2007年09月15日

自伝のプロローグ:Part 2



いつも求め続けていた、自分が人生を生きている意味を。なんでこの世にいるのか
ということを。

その答えを探すことが一番大事なことだった。そのためなら、住む国を変えることなんか、
大したことじゃないでしょ? 違いまっか?

僕は旅行とは言わない。旅行と旅とは違うものだ。事前に計画を立て、お金を準備し、
計画に従ってAからB、BからCと移動するのが旅行なら、旅はまったく違う。

僕の旅は目的はあるかもしれないが、毎日のスケジュールは一切組まないというやり方だ。
毎日が未定、どこまで行けるか、どこに行くか、どうやって辿り着くかが重要なんだ。
そのためには、お金は持たないほうがいい。まあ、これは旅というより、正確に言えば放浪ね。
放浪者なんだ僕は。

意図的に放浪する――これは信条だ。このやり方は、16歳の初めての旅から変わっていない。
以後、世界中を歩いて四国のお遍路にいたるまで、基本的に同じやり方を貫いてきた。
こう言うと、みんな「どうしてそんな辛くて大変なことするの? 危険じゃないの?」
って訊いてくるね。

その問いに対する答えは簡単だ。「僕は冒険をしたい」ということなんだ。いやそんな上品な
言い方は当たっていないかもしれない。妻に言わせれば、「クレージーな大冒険野郎」だそうだ。

ともあれ、僕の人生観も生きることの意味も、この旅と冒険がもたらしてくれた。人生には、
冒険と旅がふさわしい。今日一日だって人生のうちでしょ、毎日ホントは未定でしょ? 
旅しなくてどうするの、冒険しなくてどうする?って思う。僕は、歩きながら考えてきたこと
すべてを、これから語ろうと思う..  

Posted by エハン at 06:02Autobiography