2009年06月25日

本の紹介



あとがき ― 未来の巡礼者たち

狐には穴ぐらがあり、空の鳥には巣があるが、人の子には頭を休める場所はない
-イエス・キリスト

突如として二〇一二年の情報があふれかえっている。多数の本も出て、二本のハリウッド映画がもうすぐ公開されるし、世界中のニュース記事が、この出来事の不気味な重要性を仰々しく指摘している。現在のこのような予兆は、時間に関する高度な視点を持っていたマヤ文明に結晶化された古代の予言とスムースに溶け合っていく。マヤ文明は基本的にこのことを僕タイに遺している ― 今、人類は世界の終焉の時代に生きている。一九九三年以来このことについて語り、日本にこの情報をもたらした責任がある者としては、この十六年後という「タイミング」にも 驚いていない。

最近、週刊プレイボーイでさえも、二〇一二年の特集記事を載せたくらいだ。若い女性の美しい体の写真の間に挟まれた記事は、多少場違いな感じがしたことは否めないが……。宇宙のユーモアも健在という感じだ。これはまさに一般の人のレベルで、文字通り二〇一二年のことを裸にしてみんなに見せるという意味だったのだろう。同誌の記者は僕にいろいろ関係する質問をした。ただ、ひとつ言っておかなければならないのは、彼らは同じ質問をすでに四年前にしていたということだ。そのときは、当然ながら編集部もこれを掲載することに躊躇し、結局日の目を見なかった。今はそれほど懐疑的ではないようである。二〇〇九年の現在、低俗なレベルの「実現しなかったノストラダムスの予言」との比較では、きちんとした情報を持つ日本人には通用しないということなのかもしれない。

人々はもっと真剣な問いかけをしているようである。現在の金融危機が、これまで見ようとする人がほとんどいなかったタブーの扉を、わずかながらやっとこじ開けたように見える。この世界的な混沌と古代の預言ははたしてつながっているのだろうか。ヨーロッパのシンクタンク、ブダペスト・クラブの所長で、著名なシステム理論の哲学者であるアーウィン・ラズローでさえ、僕の最初の著書『マージング・ポイント』のテーマと共鳴する『カオス・ポイント』という本を出している。一九九三年ごろにはまったく異端の考えだったものが、大衆文化の中に劇的な再登場を果たし、しかもそこには二〇一二年十二月二十一日、冬至の日という、避けられない日付までついてきているのだ。ラズロー博士は、このカオス・ポイントの「ブレークスルー(画期的)か、ブレークダウン(破壊)か」というテーマを真剣に捉えており、「ワールド・シフト」という名の世界的な組織を設立することまでしている。

しかし、論理的に考えれば、頑固な否定論者が言うように、「空騒ぎ」であることもありえるのだろう。世界の縫い目がほころび始めているように見えるのも単なる偶然かもしれない。二〇一二年は、ほとんど説明のつかない世界経済の崩壊の前例のないスピードとは、まったく関係ないことだってあり得るではないか。いったい僕たちはどう考えたらいいのか。生態系から経済まで、あらゆるセクターにわたるグローバルな崩壊を目撃しているのか。それともこれは単なる不景気の繰り返しなのか。すべては単なる偶然なのだろうか。これまで何度も勇敢にやってきたように、僕たちはいろいろやって何とかこの危機をくぐり抜けられるのだろうか。

一歩立ち止まり、この表面的には偶然と見えるものについて、単なる好奇心以上のものをもって考慮してみなくてはならないのは間違いない。古代の歴史に埋もれた終末論の預言の真の意味が体に浸透してくるにつれて、二〇一二年なんてばからしいという条件反射の反応はしにくくなるかもしれない。このような考えが笑い飛ばされていたわずか数十年前でさえ、この地球には、今はもうない、豊かな資源があふれていたということを忘れないようにしよう。たとえば石油、そして真水だ。当時は、無限とも思えるこのような資源があった。今日の駆け足で進んでいくストレスだらけの生活ではなく、みんなもっと自分の時間があったように感じられないだろうか。そして、もちろん地球上の人口も今よりはずっと少なかった。

to be continued....  


Posted by エハン at 09:19アースピルグリム