2007年10月08日

インドと赤痢



僕は、父親に歓迎されない赤ちゃんだった。親父は言っていた「お前はアクシデントで生まれ
ちまったんだ。想定外だ」とね。生まれながらにして、拒絶されてたわけだ。出産も大変だった
らしい。毎晩パブに行ってた親父は、僕と遊ぶどころじゃなかった。彼にとっては、二人の姉の
ほうが可愛かったんでしょう。ケンカすることすらしなかった。そのせいで、父親を尊敬するとか、
暖かい思い出とか、一切まったくない。

こっちも当分の間、我慢して一緒に暮らすしかないというくらいに思っていた。子供心に、親に
期待しても無理だと分かっていた。「この二人の生命体からは、そんなに愛情もらえないな」と。
これは仕方のないことだ。恨むとか悲しいとか、そういうことじゃない。彼らだって生きるのに
精一杯なんだから。すがりついたりしても無駄なんだ。それなら一刻も早く家を出るしかない
じゃないか。そうでしょ?躊躇してる場合ですかっていう話だ。

僕を育てて愛情を注いでくれたのは、一番上の姉だった。図書館勤めのね。2番目の姉はまった
く違うタイプだったけど、長姉は「ブラザーができた!」と僕の誕生を喜んだそうだ。読書の楽しみ
を教えてくれたのも、その後いろいろ助けてくれたのもこの姉さんだった。

17歳で家を出た僕は、ロンドンにあるヒッピーのコミューンに転がり込んだ。平均年齢20歳。
一つのアパートを借りて十五、六人でシェアする。いつも五、六人が雑魚寝していた。
仕事をしている人もしてない人も、学歴の高い人も高卒もいた。上下も差別もなかった。
金も食料もたとえ僅かでも、みんなでシェアするのが原則だった。みんな自覚的にヒッピーとして
生きていたから、これは当然のルールだった。



80年代のノートに「三回の生まれ変われ」の上の「生」はインドの時代

ヒッピー精神の基本は、金は汚いものだという発想。金が必要だということは理解するけれど、
執着するなんてとんでもないことだった。だから、僕の姉がスーツケース一杯の缶詰をくれたと
きも、コミューンに帰ったら即缶詰パーティ。自分のモノなんて考えない、「みんな集まれー食い
もんがあるぞー」って。みんないい顔をしていた。まっすぐな目をしていた。率直な人が多かった。

この集団生活で揉まれながら、僕は自分自身の方向性が見えてきた―ここは楽しいけど、
やっぱり独立独歩が好きなんだと。ここにいるだけじゃ、物足りない!と。いつもそうだ。
これは変えられない性格だね。とことんやる、徹底的に行くところまで行く。
そうしないと気がすまない。

だったら、どこに行く? わかりますか。当然インドしかない。でしょ?。

2月のある日、ポケットに20ポンド(約4000円)つめこんでロンドンを出た。ドーバー海峡を渡る
ための費用だった。それ以外は必要なかった。ヒッチハイクで、インドまで旅するつもりだった。
本当にモノを持たずに歩き始めた。

現代のバックパッカーと全然違うよ。特にアメリカのバックパッカーは、でっかいバッグの中に、
クレジットカードやトラベラーズチェック入れてるでしょ。そんなのただ荷物一杯の観光旅行だ。
そもそも、アメックス持ってて放浪といえるか?という話だ。僕たちは生活の仕方として放浪し、
旅しようと志していた。ヒッピーになるということは、一、二ヶ月期間限定のヴァケーションじゃない。
ライフスタイルなんだね。だから、バックパッカーたちは本物じゃないと思っていた。1971年、
僕はヒッピー文化最高潮のど真ん中にいた。



後から考えれば、旅立ちのときでさえ、僕はたくさんの物を持っていた。それが、だんだん垢が
落ちるように剥がれていくんだ。ホントの垢はたまっていくけどね、実際の話。
で、イスタンブールまではあっという間だった。連続ヒッチハイクの旅は当時のオリエント・
エクスプレスよりも早かった。

自動車道路もあったし、めちゃくちゃなスピードで飛ばしていった。3日後、僕はアジアの玄関、
イスタンブールにいた。いよいよアジアだった。菜食主義者で無一文の僕は、パンとオレンジで
空腹をしのいでいた。だけどトルコから先、イラン、アフガニスタンを抜けていくのに、菜食主義は
通用しなかった。なぜか。ケパーブ(串焼き肉)しかない。もう来る日も来る日も、全部お肉。
「主義」なんてものは通用しないとわかった。まさにアジアの匂いだね。ケパーブは。

ロンドンを発って一ヵ月後。パキスタンとインドの国境まで来た。
よくここまで辿り着いた。ついに来たぜと思った。でも腹の調子がおかしくなりはじめていた。
旅先ではよくあることだ。気にも留めなかった。が、劇的に発症した。猛烈な下痢と高熱。もはや、
歩くのもやっとだった。僕は、赤痢に罹ってしまったのだった。

それでも、辛いとかやめようとは思わなかった。自分で選択したことだ。空腹も病気も当たり前。
同じように病気になったトラベラーをたくさん見てきた。こういうときは、心配しすぎないことが
大事だ。怖がらない、心配しない、後悔しない。このことがどれほど生きるうえで重要なことか。

そう思わないですか。単純だけれど、人生の意味が詰まっていると思う。死んじゃうかもしれない
という恐れを、毎日乗り越えていくということだ。これは別にインドじゃなくたって、
赤痢にならなくたって、東京だって神戸だって同じことでしょ。

「なんとかなるでしょ!まだまだ行ける!」



僕は宇宙に向かって、自分に向かって叫んだ。インドの大地を下痢しながら歩き、
ヒッチハイクした。気持ちだけは、強く前を向いていた。でもやっぱりフラフラだったね。
ハンパな熱じゃなかったもの。
よく生きてた。自分でもそう思う。

辿りついたのは、聖なる河ガンジスの街、ベナレスだった。とにかく金がなかったから、無料で泊ま
れるところを探した。ボートデッキなら泊まれるらしい。赤痢はさらに悪化していた。何も食えない。
熱でまともに立つことすらできない。唯一の楽しみは一日に2,3回ガンジス河に入って身体を
冷やすことだった。

尻からは水しか出てこなくなっていた。高熱の身体に直射日光が照りつける。暑い……、もうやばい
かもね……。で、ようやく泥水の川につかる。川の水は気持ちいいのだけれど、その脇を死んで
焼かれた人の遺体が流れていく。どこもかしこも焼けた人間のパーツだらけ。生と死。



僕も死ねばこんなになるのか。焼かれて、赤痢男のそばを流れていくのか。でもガンジスの水は
冷たくてありがたいのだった。

もうだめだ、この暑さではまいると直感的にわかった。とにかく涼しいところに行くんだ。
どこだそれは……、朦朧とした頭にひらめいた。カトマンズだ! 何と言ってもヒマラヤの麓、
涼しくないわけがないでしょ。僕はやっとの思いで、ベナレスを後にした。どうにかトラックに乗せ
てもらって、炎暑地獄からの旅も無一文のヒッチハイクだった。

To be continued..thanks to M!  


Posted by エハン at 08:23Autobiography